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物語
ナポレオン
の時代

     エピローグ 19年後

  1.遺骸をフランスに移す

 ナポレオンがセント・ヘレナ島で死んだとき、フランスの元首はブルボン家のルイ18世だった。
 ルイ18世が1824年に没すると、後を継いだのは弟のシュルル10世。
 しかし1830年に7月革命が起きて、オルレアン家のルイ・フォリップが即位して、いわゆる7月王政がはじまる。
 物語が再開されるのは、それから10年たった1840年のことである。 

 この年5月、内務大臣シャルル・レミュザは議会でとつぜん発言を求めて演壇に登った。
 「国王は王子ジョワンヴィル殿下をセント・ヘレナ島に赴かせ、ナポレオン皇帝の遺骸をひきとるように命じられました」
 議員たちは息をのんで内務大臣の説明に耳を傾ける。
 「政府がみなさんに要請したいのは、フランスの国土にナポレオンの永遠の墓をどのように建てるかの議論です」
 議場に大きな拍手が起きた。

 このニュースはその日のうちにパリに、ついで国中に流れて、国民を興奮させる。
 この遺骸移送の発案者はじつは内務大臣レミュザでなく、首相のアドルフ・ティエールであった。
 発案者というより推進者とよぶべきかも知れない。
 というのも、ナポレオンの墓をフランス国内に建てるべしという提案は、7月王政になってから議会でいくどもなされてきたのだから。

 ティエールが最初に首相になったのは4年まえで、そのときは半年で政権を永出さざるをえなかった。  
 この年の4月に首相に返り咲いたかれは、ひそかに期するところがあった。
 政治情勢は内外ともに厳しく、政権運営には世論の強い支持が必要である。
 このジャーナリスト出身の政治家は、以前からナポレオンに関心と共感を抱いていて、ナポレオンについて何冊もの本を書いてきた。
 これ以後も書くだろう。
 だから政権のテコ入れにナポレオンの名声と人気を用いることになんの躊躇も覚えなかった。
 
 ティエールはまず駐英大使ギゾーを介して、遺骸の返還についてイギリス政府の了承をとりつけた。
 それから国王ルイ・フィリップの説得にかかる。
 国王は、ボナパルティスムが勢いづくのを警戒して消極的であったが、結局は同意した。
 内務大臣レミュザの一見唐突な議会での提案は、こうした根回しを終えたあとでなされたものだった。
                                                                (続く

 パリのヴァンドーム広場に立つ円柱は、復古王政から7月王政期にかけて、ナポレオン崇拝者の「霊廟」でした。
 円柱の頂上にもう一度ナポレオン像を載せようという運動に、ティエールは加担しました。
 凱旋門の落成式典を挙行する企てにも、この政治家は賛成しました。
 自他ともに認める「ナポレオン贔屓」だったのです