Part 2 百日天下
第3章 ウィーン会議
1.空前の大国際会議
この頃ヨーロッパ各国の代表はオーストリアの首都ウィーンにが集まって会議をしていた。
会議はえんえんと続き、いつ終わるのかまったく分からない。
議題はなにか?
前年の5月に「パリ平和条約」が締結され、ナポレオン戦争後のフランスの国境線をどうするか、賠償をどうするか、などが決められた。
が、それ以外の難しい問題―フランス以外の国の国境の線引き等々―は後日の議論に委ねようということになっていた。
ひとことで言うならヨーロッパの政治地図のぬりかえ。
それをじっくりと決めるために7月〜8月頃にウィーンで国際会議を開催しようということになっていた。
しかしながら、関係する国の数があまりに多く、連絡と準備に時間がかかり、実際に各国代表が一堂に会したのは、4ヵ月後の9月下旬だった。
ウィーンはいまも昔も「音楽の都」である。
それに加えてこの1814年の秋には、「貧困の都」でもあった。
長く続いた戦争と、2度にわたるフランス軍による占領のために、オーストリア帝国の財政は破綻寸前である。
インフレで紙幣は紙くず同然になっていたし、あちこちに給食施設が設けられ、パンを求めて行進する貧者の姿も見られた。
ウィーンは要塞都市でもあるので、巨大な斜堤が町の中心部を周囲から切り離している。
その中心部の家賃はヨーロッパ一の高さで、ロンドンをも凌ぐほどだった。
それがこの国際会議のせいで、高い家賃がさらに高騰していた。
各国の首脳やその夫人、秘書や従僕、小間使いやおかかえ料理人などが、大挙して押しかけた。
当時のウィーンの人口はおよそ20万であったが、会議の期間はこの都市の人口が何割がふえたことは確かである。
(続く)