Part 1 第一統領ボナパルト
第6章 裁判
12.嫉みと野心
ジャン・ヴィクトール・モローはレンヌ大学で法律を学んだインテリであり、戦場では勇敢な軍人だった。
司令官ととしても優秀で、ボナパルトはこの先輩の軍人としての能力を高く買っていた。
妻ジョゼフィーヌの連れ子オルタンスの結婚相手として考えたほどである。
しかし、いつのころからか、モローとボナパルトは疎遠になっていく。
モローが結婚相手として選んだのはオルタンスでなく、マルティニック島出身の旧姓ユロという女性だった。
ユロ家とジョゼフィーヌの実家タシェ・ド・ラ・パジュリ家は島では古くからライバル関係にあって、2人の女性はパリに来てまでなにかと張り合っていた。
モローはそうした事情を百も承知でこのクレオールと結婚したのである。
「ときにはチュイルリー宮に顔を出してみたらどうかね」と忠告する者もいたが、そのようなときにモローは皮肉たっぷりこう答えた。
「年を取るとお辞儀をするのが面倒でね‥‥」
ボナパルトが創設したレジヨン・ドヌール勲章を、この共和主義者の将軍はてんからバカにしていた。
自宅での晩餐会で、モローは料理のできばえを称賛した客のまえにお抱えのシェフを呼び出し、レジヨン・オヌールの「鍋勲章」を授けると宣言して、終身統領を笑いものにした。
この優秀な軍人のなかにあったのは、嫉みと野心である。
不毛な情熱に駆り立てられて、モロー将軍はルビコン川のそばまでいくどか部下を連れて行く。
が、川を渡ることはけっしてなかった。
1804年の「モロー・カドゥーダル裁判」によってフランス人が知らされたのは、王党派がイギリスの助けをかりて自国政府を倒そうとした事実である。
国民の多くは割り切れない気持ちを抱いた。
王党派の反政府運動は、この裁判のあとで先細りになっていく。
消滅したわけでないが、衰弱していく。
そして ボナパルト権力基盤は逆に強くなった。
レジヨン・ドヌール勲章
フランスの栄典制度の花と呼ばれるレジヨン・ドヌール勲章も、
創設された当時は評判があまり良くありませんでした。
「平等の原則」に反するというのが、その理由です。
レジヨンは「軍団」の意味、オヌールは「名誉」の意味であり、
レジヨン・ドヌールは「名誉の軍団」です。この勲章を受ける者は
国家のために功績を上げたことを公式に認められ、いわばエリート
の集団に属することになるからです。
議会も世論もこの勲章を設けることに冷淡で、反対する者が少な
くなかったのです。
ところが、1804年に実施してみると、だれもが受勲者になり
たがりました。そして210年後の現在までこの制度は続いてます。
この勲章をつくったのは大成功だったのです。
(次章に続く)