Part 1 第一統領ボナパルト
第7章 ナポレオン法典
1.統一「ルール」がほしい
フランス社会を震撼させる諸事件が続発した1804年の春、ある法律が制定された。
民法典である。
『フランス人の民法典』と名づけられたこの法律は、1804年3月21日、アンギャン公が処刑された日に、静かに公布された。
鳴り物入りで登場したわけでないが、重要な法律である。
民法は 社会や家族内の基本的人間関係を定めるルールであり、いかなる社会にも必要不可欠なものである。
ところが当時のフランスではこのルールが不統一であり、未整備だった。
第1に古くからの王令や教会法、いわゆる古法がある。
第2に各地の慣習法があり、しかもそれが北仏と南仏ではかなり違う。昔はローマの属州であった南仏ではローマ法の影響が顕著であり、北仏ではそれほどでない。
第3に1789年の革命のあとにつくられた個人の自由、法のまえの平等、労働の自由などの諸原則、いわゆる大革命法がある。
これらの古法、慣習法、大革命法などが渾然一体として存在していた。
それらを整理・統合し、フランス全土に適用できる民法典をつくらなければならない。
そのことを、すべての法律関係者が久しく痛感していた。
革命直後の憲法制定議会も、以後の立法議会・国民公会・総裁政府も、その必要性を認めて、部分的には立法化の作業にとりかかっている。
とはいえ、動乱期のこととて緊急の問題がつぎつぎに発生する。
歴代の政府はその対応に追われ、じっくりと法律をねりあげるゆとりがなかった。
1799年の暮れに統領政府が成立し、第2統領にカンバセレスが就任したことで、状況に変化が生じる。
カンバセレスは政治家になるまえは法曹界の人間だった。
国民公会では立法委員会の委員長だった。
(続く)