Part 2 百日天下
第7章 ナポリ王ミュラ
11.英雄の末路
ミュラが高揚した気分にあったのは、この頃までにすぎない。
ようやくオーストリア軍が本格的反攻にでると、状況は一変した。
ナイペルク伯爵の指揮する大軍がボローニャに接近し、他の軍勢はフィレンツェに迫ってくる。
4月9日、ナポリ軍はオキオベッロ(フェラーラの近く)でオーストリア軍を迎え撃つが、明らかに劣勢だった。
包囲される危険にさらされたミュラは、退却を命じる。
兵士たちは戦意を失い、脱走兵が出はじめた。
5月3日、アンコーナの南のトレンチーノで、ふたたび大敗。
ミュラの運勢はここで尽きた。
ほうほうの体でナポリにたどりつくと、待っていたのはナポリ湾に停泊するイギリス艦隊だった。
王妃カロリーヌは、国王とその軍隊の留守中にとつぜん出現したイギリス艦隊によって、ナポリ艦隊と海軍工廠の引き渡しを命じられていた。
なすすべのないかの女は、要求を受け入れざるをえなかったという。
八方ふさがりのミュラはフランスへの逃亡を決意するが、カロリーヌは同行をきっぱり拒んだ。
とうに夫を見限っていたのだ。
ふたりは、このあと二度と顔を合わせることがない。
ミュラはごく少数の家来とイスキア島を経由して南仏に向かい、5月25日カンヌにたどり着く。
マッセナのあとを継ぎ南仏方面軍司令官になっていたブリュンヌは、ただちそのことをパリの皇帝に報告した。
ナポレオンはミュラの監禁を命じる。
驚いたかれは「皇帝の下で戦いたい」と申し出るが、その申し出は無視された。
他方カロリーヌはイギリス艦隊に保護を求め、避難させていた4人の子どもをナポリ北方のガエータで拾うと、トリエステ経由でオーストリアに向かう。
かの女は子どもたちとウイーン近郊の城館に落ちつくことができたが、これは以前の愛人メッテルニヒの配慮によるものであった。
(次章に続く)