物語
ナポレオン
の時代
ここで時計の針を数時間もどして、目を主戦場に転じることにする。
小テーブルの上にひろげた地図を見たり、両手を背中に組んであたりを歩き回ったりしていたナポレオンが、急に声を上げた。
「あれは何だ?」
望遠鏡をかざすうちに、北東の地平線に黒い点のようなものがあるのに気づいたのだ。
スルト元帥がじっと目をこらしたあとで、答えた。
「移動中の部隊のようです」
幕僚のある者は、部隊ではなく木立だといい、べつの者は、いや布陣中の部隊だろうという。
その時、フランス軍に捕捉されたプロイセン軍の伝令が引き立てられてきた。
伝令は尋問されると「東方の地平線に見えるのは、ビュロー部隊の前衛である」と答えた。
ナポレオンは愕然とする。
かたわらのスルトに鋭い視線を投げ、グルーシーへの指示はいつだしたのか、伝令を何人出したのか、と問いただした。
ここでいう「グルーシーへの指示」とは、前述の「ワ−ヴル方面に進撃せよ」という命令文である。
「ワ−ヴル方面に進撃するなら、本隊に接近することになる」という曖昧な説明もなされていた。
「本隊に合流せよ」とはっきり指示したわけではない。
スルト参謀長が、「昨夜11時と今朝の10時に、伝令をひとりずつ派遣しました」と答えると、ナポレオンはあきれたような顔になる。
「ベルチエなら100人送っただろう」
しかし、いまさら皮肉をいっても無意味である。
午後1時半、気をとりなおしたナポレオンは「グルーシー軍にこちらに戻るようにいえ」と指示したあと、ラエ・サント農場の攻撃をネー元帥に命じた。
左手のウーグモンでの攻防はいまも続いていて、ジェロームがむきになって攻め立てているが、農場を占領できないでいる。
しかもウェリントンは少数の援軍をそこに送っただけで、主力は手元にとどめたままだった。
敵の中央を突くための機は熟していないのだが、もう待てない。
東方の地平線に見えるプロイセン軍がここに来るまえに、ウェリントン軍に勝ってしまわなければならない。
一斉砲撃がはじまった。
ネー元帥の指揮するドルエ・デルロン軍団が、密集横隊になって前進する。
(続く)