物語
ナポレオン
の時代
ブライヤーズ荘の離れでこうして送るこになったのどかな生活で、ナポレオンが多少とも精神を集中させるのは口述のときだけだった。
イタリア戦役を回顧して語り、ラス・カーズに書きとらせる。
これはノーサンバランド号でスタートしたことで、いまでは日課になっている。
ラス・カーズが、まず息子に清書させた前回分を読み上げる。
それを聞いたナポレオンが、修正すべきところがあれば指摘して直させる。
それから用意しておいたメモや資料を見ながら、その日の口述をはじめるのである。
とくべつの行事がない限り、口述は昼前に始められ午後の2時ごろまで続けられた。
この口述をナポレオンに勧めたのは、ラス・カーズ自身のようである。
いくたの戦争と輝かしい勝利の数々、さまざまな政治的危機の克服。
それらについての皇帝の回顧録は、フランス国民と後世にとっての貴重な遺産です。
時間はありあまるほどあり、やるべきことはほとんどなにもありません。
過去をもう一度生きるのです。
お仕事があれば、この無聊もまぎれることでしょう。
こういわれて、ナポレオンはうなずく。
自分でもそのことは考えていたに相違ない。
ところで、ラス・カーズとはいかなる人物なのか?
マルメゾンからロシュフォール港に向かう時期までは、ナポレオンに従う部下のあいだでも、むしろ目立たぬ男だった。
ところが、英語に堪能であったことがこの小柄で控えめな文民(他の側近はすべて軍人である)を不可欠の側近にした。
イギリス側との交渉は、ラス・カーズなしにはなにもできなかった。
セント・ヘレナ島への航海中は、若いときに海軍士官だったかれは、ノーサンバランド号で軍艦の操作その他について主君が知りたがるすべてのことに、明快に答えることができた。
教養があり、頭の回転も速く、貴族の出であることから育ちがよく、言葉遣いも鄭重である。
というわけで、ナポレオンの雑談の相手として、ラス・カーズは日に日に貴重な存在になっていく。
(続く)