本文へスキップ

物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第4章 倦怠と絶望   

  2.ラス・カーズの離島

 逮捕されたラス・カーズと息子のエマニュエルは、まずジェームズタウンの城塞に監禁され、12月の末に南アフリカのケープ・タウンへ移送される。
 ケープ・タウンでの拘束は長かったが、1817年秋にようやくヨーロッパに帰ることができた。
 とはいえ、大事な原稿やメモ類は押収されたままであり、フランス国内に入ることも許されない。

 ラス・カーズはオステンデ、フランクフルト、オッフェンバッハなどに仮住まいしながら、バサースト大臣を初め、ロシア皇帝アレクサンドル1世、オーストリアのメッテルニヒなどに手紙を書き、ナポレオンがセント・ヘレナ島でいかに屈辱的な扱いをうけているかを訴えた。
 またマリー・テレーズにも、かの女の夫(法律的にはこの時点でも夫である)の生活ぶりや健康状態を報告した。
 だれからも返事はなかったようである。

 ここで時計の針を数年先まで回すなら、ラス・カーズがフランスに帰国できたのは1821年、ナポレオン没後のことである。
 その時になって、虎の子の原稿類がイギリス政府からそっくりそのまま返却された。
 パリ郊外パシー村に居を定めたラス・カーズは、それらの大量の原稿と書類を整理し、新たに加筆しつつ、本にまとめる作業にとりかかる。  
 人びとは6年まえに国を去り、遠い異国の地で没したナポレオンについての情報を欲していた。
 セント・ヘレナとはどこにあり、どんな島なのか?
 皇帝はそこでどのように生き、どのように死んだのか?  

 それに答える
『セント・ヘレナのメモリアル』全8巻が出版されたのは、1823年の暮れだった。
 ラス・カーズが予想したように、あるいはかれの予想をはるかに凌駕して、この書物は読者に歓迎された。
 当時この言葉はなかったが、たいへんな「ベストセラー」になったのである。

                                      続く

 『セント・ヘレナのメモリアル』が当時よく読まれた理由のひとつは、ナポレオンの素顔が生き生きと描かれていたからです。
 それまで「軍神」あるいは「皇帝」でしかなかった偉人が、楽しい話相手であり、自らを客観視できる知識人であること。
 政治家としてもひとりの人間としても、合理主義者でありレアリストであったこと。
 そうしたことが敬意をこめた筆致でていねいに語られています。
 「わたしの人生は一編の小説だ」というナポレオンの有名な言葉も、この書物のなかに見いだされます。