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物語
ナポレオン
の時代

     エピローグ 19年後

   6.ナポレオン伝説(T)

 翌日から、10日間と日数を限定したうえで、ナポレオンの棺が一般公開された。
 予想をはるかに超える群衆がアンヴァリッドを訪問して,政府をあわてさせる。

 遺骸の帰還で国民が盛り上がりすぎないように、政府はあれこれ配慮してきた。

 なお「遺骸」であって、遺骨でないことを改めて指摘したい。
 ナポレオンはセント・ヘレナ島で火葬されたわけでない。
 その遺体は白いサテンで内張りされたブリキの棺に寝かされ、その棺全体がマホガニーの柩に入れられた。
 さらにそれが鉛の柩に移され、最後に黒檀で裏打ちだれた樫の柩に収められた。
 この四重の柩が、すでに述べたように、遺骸移送チームによって一度は開かれたものの、熱帯の風土を考慮してただちに閉じられ。そのままフランスに護送されたのである。

 護送船団がシュルブール港に帰着したあと、この遺骸の柩は多くの人の目にふれる陸路でなく、わざわざ川船で首都に移送された。
 パリ市内での葬送行進は、日曜や祝日でなく、あえて平日の火曜におこなわれた。
 こうした政府の姑息な措置にもかかわらず、フランス国民はナポレオンをいまも忘却していないことを行動で示す。
 アンヴァリッドには連日大勢の見物客がつめかけ、建物の周囲に長蛇の列をつくって、寒空の下で根気よく入場を待った。
 とくに12月19日の日曜には、10万もの人間が押し寄せたといわれる。

 19年もまえに世を去った人間のこの人気はどこからくるのか?
 復活したブルボン王朝やそのあとに登場したルイ・フィリップの7月王政への失望と不満のせいもあるだろう。
 が、それだけではない何か、プラス・アルファの何かがあった。
 いわゆる「ナポレオン伝説」である。
 同時代の文学者シャトーブリアンは「ナポレオンは死後に世界を征服した」と書いている。
 「伝説」が本人の死んだあとで膨らみ、強い風になって「世界」(ヨーロッパの意味であろう)を席巻した、と評しているのだ。

 さまざまな事情や要素がからんでナポレオン伝説は生まれ、高く飛翔することになるのだが、その過程でラス・カーズの『セント・ヘレナのメモリアル』が果たした役割は大きい。
 1823年に、すなわち没後2年目に刊行されたこの書物は、現在では考えられないほどの大きな反響を呼び、いくども版を重ねた。
 世界に君臨した権力者がすべてを奪われ、大西洋の波に洗われる岩だらけの島に流される。
 そしてギリシャ悲劇の人物のように、不幸のどん底で、裸で死んでいく。
 『セント・ヘレナのメモリアル』に読者が見いだしたのは、悲運の皇帝のイメージであった。
                                        (続く