エピローグ 19年後
7.ナポレオン伝説(U)
ナポレオンは皇帝在位中からとかく批判が絶えなかった。
「王位簒奪者」と非難され、アッチラやジンギスカンのような独裁者だと誹謗された。
イギリスなどで刊行された反ナポレオン文書では、冷血漢・背信者・近親相姦者・コルシカの人食い鬼などと罵倒された。
このような「悪い噂」は、ナポレオンが没落した1815年頃から広くひろまった。
いわゆる「暗黒伝説」の時期である。
しかし暗黒伝説は長く続かない。
『セント・ヘレナのメモリアル』など多くの書物・演劇・絵画・民衆版画などがしだいに優勢になっていくからである。
王政復古期にはナポレオンについて肯定的に語ることが、時の権力を批判することにつながった。
いわゆる「黄金伝説」あるいは「バラ色の伝説」の時期である。
だからこそ7月革命のときに「自由万歳!」「ブルボンを倒せ!」のかけ声とともに「ナポレオン2世万歳!」の叫びも聞かれたのである。
ナポレオン2世と呼ばれ、フランス国民の一部から嘱望されたのは、ウィーンで暮らしていた19歳のライヒシュタット公であった。
ナポレオンの遺骸がパリに戻された1840年に、ルイ・ナポレオンという名前の男がクーデタを試みて失敗し、逮捕され、監獄に入った。
ナポレオンの32歳になる甥である。
その8年後に2月革命が勃発。
ルイ・フィリップは王座を追われてイギリスに亡命した。
入れ代わるようにフランスの土を踏んだのは、このルイ・ナポレオンである。
脱獄に成功して、ロンドンに逃れていたのだ。
フランスでほとんど無名の男は、この年におこなわれた下院の選挙に出て,なんと当選。
ついで、伯父の名前の威光を信じて、大統領選挙に立候補する。
外国に長く暮らしたルイ・ナポレオンは、当初、見くびられていた。
ところが、選挙戦が進むにつれてダークホース的な存在にのし上がり、終わってみれば、じつに74パーセントの得票率でトップ当選した。
その3年後には、クーデタによって議会を解散し、おのれが皇帝になることの是非を投票にかけ、国民の支持を得て、「ナポレオン3
世」を名乗る。
あれよあれよと言う間に、フランス皇帝の地位にまでのぼりつめたのだ。
ナポレオン伝説の強い後押しがなければとうてい考えられないことである。
(続く)