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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第2章 ロングウッド 

   7.英語のレッスン

 1816年1月、ということはロングウッドに移って1ヶ月ぐらいになるのだが、気持ちにゆとりが出たのか、ナポレオンが英語を習いたいといいだした。
 先生はもちろんラス・カーズである。
 ノーサンバランド号で島に向かってるときも、船中の無聊をまぎらすために英語を学んだことがある。
 でも、そのときは三日坊主に終わっている。

 セント・ヘレナ島は英語圏であるから、手に入る新聞・書籍などはほぼぜんぶ英語のものである。
 ために情報不足から欲求不満になったナポレオンは、それなら英語を勉強するか、という気になったらしい。
 ラス・カーズが選んだ教材は,英字新聞だった。
 仏語と英語は類似点が多いので、こういうことも可能であるが、そのときにラス・カーズが口にした言葉に驚かされる。
 「規則的に勉強されれば、1ヶ月ぐらいでこれがお読みになれるでしょう」

 46歳にもなった人間がその程度の期間でそんなことが可能だろうか?
 レッスンは20回ぐらいおこなわれ、生徒は先生の助けなしに、英字新聞を判読できるようになったという。
 もっとも、ナポレオンが英語で書いた手紙がいまも残っているが、綴りの間違いが多く、あまり英語力がついたようにも見えない。

 こうして口述筆記のみならず英語のレッスンも加わり、二人は水入らずの長い時間を過ごすことになる。
 それが他の側近たちの嫉妬をかき立てた。
 とりわけグルゴーの苛立ちは顕著で、ラス・カーズに「うっとり」あるいは「イエズス会士」などのあだ名をつけて、あからさまにバカにした。
 主君の言葉に恍惚として耳を傾けるから「うっとり」であり、猫かぶりの追従家だから「イエズス会士」なのである。

 閉ざされた空間に同じ人間が長い時間いっしょにいれば、その関係は饐(す)えていく。
 グループ内で「いじめ」の最初の犠牲者になったのはラス・カーズだった。

                                        続く

 ヨーロッパ全体に君臨したこともあるナポレオンですが、外国語を話すのは不得手だったようです。
 英語だけでなく、ドイツ語もロシア語もダメでした。
 フランス語以外に出来たのはイタリア語ぐらいですが、コルシカ生まれの人間にとってイタリア語は外国語といえません。
 もっとも、当時のヨーロッパの知識階級はフランス語を解しました。
 ですから外交の場で、ナポレオンが外国語を話す必要はほとんどありませんでした。