Part 1 第一統領ボナパルト
第7章 ナポレオン法典
9.長寿と影響力
1804年に発布された『フランス人の民法典』は、3年後の1807年に『ナポレオン法典』と改称される。
帝政の絶頂期だった。
第一統領の強引な突破力(たとえば、護民院議員20名を追放したような)がなければ、この法律はおそらく日の目を見ることがなかった。
いつかは制定されたとしても、はるか後代のことになっていたかもしれない。
その意味では、ナポレオンの名を冠するだけの理由はあったといえる(ただし、現在ではこの呼称は正式には使われない。)
『ナポレオン法典』の寿命は長かった。
離婚関係の条項を別にすれば、ほぼ1世紀のあいだ、大きな変更なしに生き延びた。
19世紀のフランスでは政権がいくども交代した。社会も大きく変わった。そして政体が代わるたびに新しい憲法がつくられた。
そのあいだも、民法典のみはフランス社会の規範であり続けたのだ。
のみならず、ベルギーやラインラント、ルクセンブルグなどの諸国で、法体系のモデルとして採用されたし、オランダ、ドイツ、スイス、イタリアなどにも、多少の修正がなされた上で、導入された。
遠い日本にまで、その影響は及んだ。
明治23年にいちどは公布された「旧民法」は、ナポレオン法典を母法としていた。
「わたしの栄光は40の戦闘に勝ったことではない。なにものも消すことができず、永遠に生きるのはわたしの法典であり、参事院におけるその議事録である」
と、ナポレオンは晩年になって自慢した。
この言葉の半分は、後世に向けてのプロパガンダであろう。
とはいえ、かれが民法典の内容に自信と誇りを抱いていたのは確かである。
ナポレオンに批判的なイギリスの歴史家ポール・ジョンソンですら、しぶしぶ認めている。
「欠点はあるものの、この法典はかれの金字塔でもあった」
(続く)
日本への影響
ナポレオン法典がわが国の民法にあたえた影響については、足達正勝著『ナポレオン
を創った女たち』(集英社新書、2001年刊)をご参照ください。
この問題についての記述は10頁ほどですが、簡にして要をえた説明があります。
この本によれば、明治期の日本にとって、ナポレオン法典の女性に関する規定は「あ
まりにも進歩的でありすぎた」のだそうです。