Part 1 第一統領ボナパルト
第4章 フランス vs. イギリス
12.ルイジアナの売却
フランスの元首が自国大使に失礼な態度をとったことは、ただちにイギリス議会の知るところとなり、議員たちを憤慨させた。
と同時に、アミアンの和約をほごにする格好の口実をも提供した。
国王ジョージ3世は、ときをおかず、議会に軍備を強化するように通達する。
それをうけてウェストミンスターは軍事予算をふやし、水兵の増員をきめる。
ピットのカムバックも噂にのぼるようになる。
フランスも迅速にそれに反応した。
英仏海峡ぞいに多数の舟艇が集められる。
戦費を準備するかのように、ルイジアナの植民地が6000万フランでアメリカ合衆国に売却された。
ここでいうルイジアナは、現在のルイジアナ州のことでない。
ミシシッピー川からロッキー山脈にいたる、合衆国中央部の広大な地域がそのころはルイジアナと呼ばれ、フランスの植民地だったのである。
ルイジアナという名前自体、フランス国王ルイ14世にちなんでいて、「ルイの土地」ぐらいの意味である。
ある時期、ボナパルトは西インド諸島のサン・ドマング、南米のギアナ、そしてこの北米のルイジアナを結んで一大植民地を建設する夢を抱いていた。
しかし、つい最近サン・ドマングに原住民の大規模な反乱が起き、どうにも収拾がつかなくなった。
ボナパルトの義弟ルクレール将軍が、反乱鎮圧のために島に派遣されたのだが、黄熱病で死んだ。
サン・ドマングの情勢は日を追って悪化するばかりで、壮大な植民地建設どころでなくなった。
この島はまもなく独立して、ハイチと名乗るだろう。
イギリスとの戦争は、どうやら避けられそうもない。とすれば、ルイジアナを手放すのはいまが潮時かもしれない。
ボナパルトはそう判断したのであろう。
フランスがルイジアナを手放したのは、アメリカにとって丸儲けの買物になった。
6000万フランは米ドルに直せば1500万ドルに相当するが、1エーカー当たりに換算すればわずか4セントにすぎない。
ルイジアナの購入は、合衆国が西部にどんどん膨張していく契機になった。
(続く)