Part 1 第一統領ボナパルト
第6章 裁判
5.他殺説
ピシュグリュ他殺説に立つひとりは、スタール夫人だった。
下手人はボナパルトの側近のマムルーク(騎馬親衛隊員)で、犯行の具体的指示をしたのはサヴァリであろう、と推測している(『亡命の十年』)。
そもそもアンギャン公の事件について、夫人はどう考えたのか。
「わたしはあの男(ボナパルトをさす)を心から憎悪していたが、このような大罪を犯すとは思っていなかった‥‥ この大罪は、一瞬の激情からでなく、冷静に遂行されたものであろう。
まずアンギャン公を処刑することで、ジャコバン派と血の同盟を結ぶことになる。
つまり第一統領がこれ以後ブルボン家と手を握ることはありえない、という保証をあたえたのだ。
つぎにこの処刑は、一般のフランス人に第一統領が全能の権力者である事実を改めて教える。
それは、国民を統治するうえで有益である。
このような政治的判断にもとづいて、アンギャン公の処刑はなされたに相違ない」(同書)。
さすがに鋭い意見である。
ただし、この文章が収められてる『亡命の十年』が書かれたのは、ずっと後になってからだった。
時間の経過とともに、いろいろなことが明らかになった後に表明された意見である。
引用した文章の冒頭で、スタール夫人は「あの男を心から憎悪してした」と書いている。
なぜこのように強い表現をしたのか?
ボナパルトによってフランスから追放されたからである。
1802年の暮れに、かの女は反政府的な言論活動をしているという理由で、パリに居住することを政府から禁じられた。
翌・1803年10月には、いっそう厳しい「国外退去」の命令がでた。
自宅はジュネーヴ近郊のコペにあるのだが、そこに長くとどまることに耐えられなくなって、夫人はドイツ旅行に出発する。
そしてベルリンに滞在しているときに、アンギャン公事件の報に接したのである。
(続く)