断章 帝政期
6.議会軽視とネポティズム
アウステルリッツの戦勝は、皇帝の威光をいちだんと高めた。
威光が増せば、自信もふくらむ。
もともと自らを恃む気持ちの強いナポレオンである。自信過剰になり、傲慢になった。
そのひとつの現れが、議会軽視の姿勢。
以前から、かれは護民院や立法院の議員たちに不満をいだいていた。
それほど難しいことでないのに、なにかを決めるのに時間をかけすぎる。やっと決まったことも、しばしば気に入らない。
すでに統領時代の1802年に、ナポレオンは護民院の議員定数100名を半分の50名にへらしていた。1807年には、護民院そのものを廃止してしまう。
それだけでなく、立法院にも手をつけ、会期を大幅に短くした。
しかも、政府が停会・延会を思うがままにできるようにした。
参事院ですら、帝政になってからはその存在感がすこしずつ希薄になり、ナポレオンが出席する機会もへった。
護民院・立法院の議員や、参事院の評議官のなかには、自分に楯つく者がいる。
そういう連中が疎ましく感じられるようになってきたのだ。
「最良の部下」とは、こちらの意向に沿って行動する人間である。
よく指摘されるナポレオンのネポティズム(身内の優遇)は、そこから生まれた。
兄弟や一族郎党なら、自分がいうとおりにやってくれるだろう。
帝政がはじまって1年後、義理の息子ウジェーヌ・ド・ボーアルネーをイタリア副王に任じている。
なお、イタリア王はナポレオン自身である。
ウジェーヌは、ジョゼフィーヌの連れ子であるが、この時点で23歳でしかなく、一国のトップになるには若い。
同年、妹カロリーヌの夫ミュラ元帥を、ベルク大公国の大公にしている。
1806年には、兄のジョゼフをナポリ王国の王に、弟ルイをオランダ国王に任命した。
さらにその翌年、末弟ジェロームをヴェストファーレン王国の王にした。
このような露骨なネポティズムのきわめつきは、1808年に、ジョゼフをスペイン国王にし、空席になったナポリ王の椅子に、ミュラをベルク大公国から横滑りさせたことであろう。
(続く)