物語 ナポレオンの時代
Part 1 第一統領ボナパルト
第3章 コンコルダ
4.世論とサロン
世論はどうだったのか?
現代のわれわれはついそう思うが、この時代に世論はあったのか?
フランスに世論らしきものが誕生したのは、18世紀後半といわれる。
サロン、カフェ、フリーメーソンの集会、読書クラブなどが、「世論」の生ずる場だった。
なかでもサロンが世論形成に大きな役割を演じた。
この時期のパリにサロンはどのくらいあったのか?
それはつまびらかにしないが、17世紀にフランス全体で60ぐらいあったことは分かってる。
大胆に推測するなら、19世紀初めも それと同じぐらいか、それよりいくらか多かったのでは?
フランス全体で60なら、その3分の2がパリに集中していると推定して、ざっと40ぐらいか?
なお、当時のパリは現在よりずっと小さかったことを念頭におく必要がある。
サロンには流行があり、人気のあるサロンとそうでないサロンがある。
この時期のパリでよく知られていたのは、女流文学者のジャンリス夫人のサロン、美貌で有名なレカミエ夫人のサロン、ボナパルトの妹のバッチオキ夫人のサロンなど。
コンコルダ交渉がはじまってからは、スタール夫人のサロンがとりわけ評判になっていた。
というのも、かの女が時の権力者ボナパルトを手厳しく批判していたからである。
スタール夫人の結婚まえの姓はネッケル。 革命まえの財務長官として名高いネッケルの娘である。
ネッケルはスイスの銀行家で大金持ちだった。
その一人娘ジェルメーヌは少女時代から利発で、父親から甘やかされて成長し、19歳のときにパリ駐在スウェーデン大使スタール男爵と結婚する。
この男性は17歳も年長であったが、終生パリ駐在大使のポストを約束されているという(ジェルメーヌから見て)大きな長所をもっていた。
ジェルメーヌが人生でぜひともやりたいことは、ふたつ。
自分のサロンをパリにひらいて、知的な会話を存分に楽しむこと。
それと併行して著述をおこない、自分の政治的・社会的意見を活字で表明すること、である。
スタール夫人は政治につよい関心を有していた。
もし現代に生まれていたら、おそらく政治家か政治学者になっていたに違いない。(続く)