Part 1 第一統領ボナパルト
第6章 裁判
3.ピシュグリュも逮捕される
ここで話を3週間ほどまえに戻すと、ピシュグリュが2月27日夜にパリで逮捕された。
つまかえに来た4人の憲兵を相手に、この精悍な男は15分ほども格闘したあと、ベッドの掛布でぐるぐる巻きにされて連行された。
ピシュグリュという名前はこれまでいくどか出したが、異色の経歴の持ち主である。
初めは教師だった。
が、二十代で教師業に見切りをつけてやめ、軍隊に入った。大革命の起きる直前である。
気性がはげしく行動的なのが軍人に向いていたらしく、とんとん拍子に昇進する。
三十代の初めには、一軍を指揮するまでになっていた。
やがて北部方面軍やライン・モーゼル方面軍の司令官になり、ベルギーやオランダの戦場で華々しい軍功をあげ、「オランダの征服者」と賞賛されるまでになる。
ピシュグリュはよく食べよく飲むのが好きで、女にだらしのない享楽家だった。
享楽には金がかかり、そこにつけこまれる。王党派に篭絡あるいは買収されたのは、軍人としてのキャリアのピーク時だった。
1796年、収賄が露見して、辞職せざるをえなくなる。
政界に転じて5百人会の議長になったが、政変で南米ギアナに流刑になった。
熱帯のギアナにある監獄は「乾燥ギロチン」と呼ばれる過酷な環境であったが、ピシュグリュは脱獄に成功する。
ヨーロッパまで船でもどり、なんとかロンドンにたどりついた。
帰国したきさつは、すでに述べたとおりである。
1804年1月末日、かれはパリのマドレーヌ大通りでモロー将軍に会った。ピシュグリュの軍隊時代に、モローはかれの部下だった。
この会見をセットさせるために、かれはモローの元副官のラジョレをわざわざイギリスから同行させていた。
(続く)