Part 2 百日天下
第7章 ナポリ王ミュラ
9.保身に走る
1813年10月のライプチヒの戦いは「諸国民の戦い」と呼ばれるほど大規模なものだったが、この会戦にナポレオンは敗れた。
このころからベルティエやコーランクールのような側近の上級将官ですら、フランスの破局を不可避と考えはじめる。
事実その5ヵ月後、対仏同盟軍がパリに攻め込んだ。
1814年4月、ナポレオンは退位する。
その日のうちに、元老院はルイ18世をフランス国王として承認した。
ナポリ王ミュラは、その翌月、ブルボン王家のパリ帰還を祝う書簡をルイ18世に書き送った。
「フランスに生まれたわたしの胸には、アンリ4世と聖ルイの血脈への崇拝の念と愛情があります」
このような見えすいた阿諛追従はシニカルなルイ18世にまったく通じず、鼻で笑われただけである。
6月になると、北イタリアのロンバルディア地方がオーストリアに併合された。
ナポレオンがつくりあげた「イタリア王国」は、10年ほどしかもたなかったわけである。
10月にはじまったウィーン会議に、ミュラはナポリ王国の代表を派遣したが、あっさり門前払いをくう。
ナポレオン以後のヨーロッパを考える会議のテーブルに、ナポリ王国の椅子はないとにべもなくいわれたのだ。
フランス代表タレーランは、ルイ18世の意を受けて、かねてこう主張していた。
「ミュラは正統性なき国王であり、ナポリから追放されるべきである」
ナポリはもともとスペインのブルボン王家の分家によって支配されていた。
タレーランにいわせれば、ブルボン家の人間こそが正統性をもつ国王なのである。
足元に火がついたミュラは狼狽する。
エルバ島にいるナポレオンからの密使がナポリにやってきたのは、そのすこし後であった。
(続く)