Part 2 百日天下
第7章 ナポリ王ミュラ
5.「5月2日」の褒賞
ベルク・クレーヴ公国大公ミュラは1808年3月、皇帝名代の肩書きでスペインに赴いた。
すでに述べたように、スペインのブブボン王家はかねて内紛をかかえており、ナポレオンはそれにつけこんでブルボン家をスペインから追い払おうと企てたのだ。
まず国王カルロス4世とその長男フェルナンドを、ミュラは指示どおりにフランス南西の都市バイヨンヌに送り出す。
もうひとりの王子フランシスコとエトルリア女王の王女も、それに続いてマドリッドを発つことになる。
その日は5月2日だった。
王族がいなくなるのを知ったマドリッドの民衆が、王宮まえに集まってきていた。
警備の外国人兵士に腹を立てたかれらは、とつぜん暴徒化して、隠し持っていた武器で襲いかかる。
多くのフランス兵(一説によれば200名)が、その場で惨殺された。
報告を受けたミュラはただちに騎兵部隊を出動させ、激しい戦闘のあとで暴徒を鎮圧する。
事件のてんまつを皇帝に報告するミュラは、「ヴァンデミエール13日」を思い出していたのか、どこか誇らしげであり、しかも楽観的だった。
「もはや、スペインの平穏が乱されるようなことはありますまい」
かれは、すこしまえから空位になっているこの国の王座を期待して、胸を躍らせていた。
ところがナポレオンは、兄のジョゼフをわざわざナポリから移してスペイン王にする。
そのあとで義弟に「ポルトガルとナポリのどちらがよいか? 好きなほうを選べ」といった。
失望をかみしめながら、ミュラはナポリをとる。
南イタリアでミュラを待っていたのは、抜けるような青い空と紺碧の海。
それに国民の陽気な歓迎。
古くからいくども外国に支配されてきたナポリ人にとって、王の交代などよくあることだった。
この国では「ジョアシャン1世」と名乗ることに決めたミュラは、豪華な礼服に身を飾り、得意満面で戴冠式にのぞんだ。
(続く)