断章 帝政期
8.筏の上の会談
イベリア半島でフランス軍はスペイン民衆のゲリラ攻撃とイギリスの正規軍を相手に手こずっていた。
戦争は膠着状態のままいつ終わるか分からない。
しかしヨーロッパの北では、ナポレオンの不敗神話がいまも生きていた。
プロイセンはこの10年ほど中立的な立場をとってきたのだが、最近になって「第4次対仏大同盟」に加わり、フランスに戦いを挑んできた。
1806年10月のイエナとアウエルシュタットの戦いで、フランスはプロイセン軍を撃破した。
プロイセンは悔しがり、雪辱を期してロシアと手を組む。
翌・1807年2月に、両国の軍隊はフランス軍とアイラウで激突した。
吹雪のなかの戦闘は、どちらが勝ったともいえない悲惨な結果に終わる。
その4ヵ月後におこなわれたフリートラントの戦いでは、ロシア・プロイセン連合軍はフランス軍に完敗。
その後始末のために、ナポレオンは普・露両国の国境ティルジットに赴く。
そこを流れるニーメン河に大きな筏を浮かべて繋ぎとめ、その上に真っ白な天幕を張って、ロシアのアレクサンドル皇帝と会見した。
プロイセンのフリードリッヒ・ウィルヘルム3世は会談に招かれず、ニーメン河の岸辺で、馬上から天幕の方向を眺めるだけだった。
両岸には、この歴史的光景を見ようと、大勢の群集が集まっている。
会談は友好的なムードで2時間つづき、ふたりの君主は腕をくんで天幕の外に出てきた。
発表された「ティルジットの和約」では、プロイセンが多くの領土を失い、さらに巨額の賠償金を課されていた。
プロイセンが失った地域には、ヴェストファーレン王国とワルシャワ公国が建設された。
他方ロシアには賠償金も課されず、領土の割譲も要求されていない。
ナポレオンはロシアと同盟を結びたがっていた。
この北方の大国との間で、ヨーロッパ大陸の大部分を仕切ろうと狙っていたのだ。
このニーメン河の筏の上でロシア皇帝と会見した1807年ごろが、ナポレオンの権勢の絶頂期であったのかも知れない。
(続く)