断章 帝政期
9.ロシア遠征
ティルジットの和約は5年しかもたなかった。
1812年に、フランスとロシアが戦うことになったからである。
ロシア側には不満を抱く理由がいくつかあった。
フランスにとっての開戦理由はひとつ、大陸封鎖令をロシアが守らないことである。
ナポレオンは自分の支配力がおよぶ欧州各国に、イギリスとの貿易をやめるよう、1806年と1807年、二度にわたって要請していた。
しかし、ヨーロッパの海岸線は北から南まで長い。
高品質で安価なイギリス製品の密輸入はあとを絶たず、「封鎖」の効果はあまり上がらない。
業を煮やしたナポレオンが、ポルトガルにジュノ将軍の軍を派遣したことは、すでに述べたとおり。 そして今度は、ロシアをこらしめようとしたのだ。
皇帝アレクサンドル1世がイギリスとの交易をロシア国民に許し、フランス製品に高い関税をかけているのが赦せないと判断した。
50万の大遠征軍を編成し、1812年6月に進軍を開始する。
この戦争には、駐露フランス大使コーランクールをはじめ、反対する部下が多かった。
しかし、ナポレオンは聞く耳をもたない。
50万の大軍で攻めれば、数ヶ月でケリがつくだろうと相手を見くびっていた。
力の驕りである。
当初は、順調かに見えた。
遠征軍はヴィルナ、スモレンスクなどをつぎつぎに占領し、東に向かう。
ロシア軍は徹底した後退戦術にでた。
フランス軍と戦わずに、町に火をつけて立ち去る。
その跡には、なにひとつ残されていない。
モスクワに到着しても同じだった。
大火災によって、都市全体が焼きはらわれ、宿舎にする建物も食べる食料もない。
厳寒の冬が近づくと、飢えと寒さに苦しむフランス軍は、モスクワを立ち退かざるをえなかった。
ロシア軍とコサック兵がはげしく追撃してきた。
退却軍は壊滅状態に陥った。
50万の遠征軍のうち、帰国できたフランス軍兵士は2万人にすぎない。
(続く)