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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第6章 死因   

   1.解剖報告書

 ナポレオンの死の翌日、ロウ総督がランバート提督および幕僚十数名を伴ってロングウッドに姿を見せた。
 一行は、サロンに安置された遺体のまえで弔意を表して、退出する。
 午後になって、解剖のために遺体は応接間に移され、シーツをかぶせたビリヤード台の上に載せられた。
 このビリヤード台に、元気なときのナポレオンは地図をひろげ、それをのぞき込みながら戦役の口述をしたものである。

 解剖がはじまったのは、午後2時半ごろだった。
 生前ナポレオンから指名されていたアントンマルキが執刀した。
 総督府からリード中佐と幕僚2名が出席し、アーノット医師を含む7名のイギリス人軍医が立ち会う。
 フランス側からは、ベルトラン、モントロン、マルシャンなど7名。
 ビリヤード台の周囲に、合計17名の人間が立ったわけである。

 アントンマルキははじめに遺体の胸腔をひらいて、諸器官をイギリス人医師団に検分させ、つぎに胃を切開して、これも一同の検分に供した。
 心臓が取り出され、アルコールを満たした容器に入れられる。
 このあとアントンマルキは脳も調べることを提案するが、ベルトランとモントロンが反対した。
 死因を確定するために必要なことはともかく、それと無関係のことで遺体を切り刻むのはもってのほかである。

 では、死因はなんだったのか?
 胃に「硬性がん」があるということでは、医師たちの意見がほぼ一致した。
 なお「硬性がん」とは19世紀初めごろに用いられた病名であり、潰瘍とがんの両方を意味していた。
 胃潰瘍と胃がんの区別が確定するのは1830年ごろ、すなわちナポレオン没後10年ほどしてからである。
 肝臓はどうか?
 これについては医師たちのあいだで見解が分かれた。
 アントンマルキとイギリス人軍医トマス・ショートは肝臓が肥大していると判断したのだが、他の医師たちはそれに与しない。
 ロウ総督が、解剖報告書のなかに「肝臓」という文字が入るのを好まぬことを、かれらは知っていた。
 この時代、肝臓病は不健康な風土に由来すると考えられていて、ナポレオンがその犠牲になったと思われるのを、総督は恐れていたのである。

 イギリス人軍医たちは、解剖報告書を自分たちが作成したいと申し出るが、アントンマルキは怒って拒否する。
 「執刀した自分が書くのがとうぜんであり、お望みなら写しを一部さしあげるのはやぶさかでないが‥‥」と、かれは顔をこわばらせながらいった。

   (続く