Part 1 第一統領ボナパルト
第6章 裁判
10.レカミエ夫人
公判がはじまって数日後。
ライン方面軍でモローの部下だったルクルブ将軍が、男の子を抱きかかえて現れ、傍聴席の兵士たちに向かって叫んだ。
「モロー将軍のご子息だぞ!」
法廷が喝采で沸き、歓声があがる。
警護役の憲兵までが起立し、軍隊式の敬礼をした。
不意をつかれたモローは仏頂面をしている。当惑しているようだった。
それを横目で見ながら、カドゥーダルは隣りに坐った男につぶやいた。
「おれがモローなら、今晩はチュイルリー宮殿に寝ているだろう」
部下の兵士たちに人気があるのに、かれらの熱い期待をみずからの政治パワーに代えられない男に覚えるもどかしさ。それがこの言葉にはこめられている。
べつの日、レカミエ夫人がとつぜん傍聴席に姿を見せた。
じつはモロー自身が妻を介して裁判にぜひ傍聴してほしいと依頼していたのだ。
かの女が特別のドアから判事のひとりに招じ入れられて法廷に入り、被告席を見ながら顔のヴェールをとったとき、歎声がさざなみのように広がった。
モローは立ち上がって夫人に会釈を送った。
ジュリエット・レカミエはこの時代随一といわれた美女である。
ダヴィッドやジラールの描いた肖像画によって、われわれはその美貌がいかなるものかを知っている。
かの女のサロンには、スタール夫人やベルナドットのような、ボナパルトとの関係が微妙な者が多く出入りしていた。
モロー自身も常連のひとりだった。
レカミエ夫人は、そうした反体制的なグループの結節点のような役割を演じてもいた。もっとも、どこまでそれを自覚していたのか分からないが‥‥
モローが夫人を裁判に呼んだのは、ボナパルトへの対抗心から、かの女と親しいことを見せつけたかったのであろう。(続く)