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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第1章 上陸 

   10.移転

 バルコーム家の離れに住むのは短期間のはずだったが、意外に長びいた。
 ロングウッドの台地にある家屋の拡張・改装工事が遅々として進まなかったからである。

 ナポレオン、ラス・カーズ父子、それに途中からブライヤーズ荘に来てテント生活をはじめた
グルゴー将軍は、まあまあ気楽な生活を送っている。
 ジェームズタウンに残っていた者たちにとっては、事情はことなる。
 ベルトラン将軍夫妻とモントロン将軍夫妻は、せまくるしい宿屋で毎日いやでも顔を合わせなければならない。
 とうぜん、ギスギスした関係になっていく。
 召使いたちは暇をもてあまし、酒を飲んだり島民たちと無駄話をして、なんとか時間をつぶしている。  
 だから、ロングウッドの補修工事が終わったので移転可能であるという連絡が入ったとき、ほとんど全員が喜んだ。
 ナポレオンはべつである。
 塗装のペンキが生乾きで匂うと聞いて、顔をしかめた。
 嗅覚がきわめて敏感なかれは、ごくわずかの匂いでも気分が悪くなる体質である。
 もうひとり喜ばなかったのはベッツイ・バルコームで、14歳の娘らしく、別離を悲しんで涙をながした。

 引っ越しは、12月10日の日曜日。
 ナポレオンはバルコーム氏と昼食をともにし、感謝の気持ちを表すために自分の名前の頭文字が刻まれた金の箱を贈る。
 コックバーン提督が午後2時に迎えにきた。
 ナポレオンは近衛猟騎兵の制服に身を固め、この日のためにケープタウンからとりよせた駿馬にまたがり、ブライヤーズ荘を離れる。
 ベッツイは家のなかにとどまり、窓際に立って見送っていた。
 道ばたには、引っ越しの行列を短い行列を見物しようとして、大勢の人間が立ち並んでいる。

 一行がロングウッドに着いたのは、午後4時ごろ。
 周囲に、すぐさま歩哨が配置された。
 新しい住居に浴室があるのが、ナポレオンを歓喜させる。
 なにしろマルメゾンを発ってから、一度も入浴していないのだ。
 ただちに湯をわかすように命じると、上機嫌で浴槽にからだを沈め、いつまでも出てこなかった。
 長い入浴で疲れたのか、その後ベッドに横たわるとうとうとしはじめる。
                                (次章に続く

 グルゴー将軍は、ラス・カーズとはべつの意味で、ナポレオンを崇拝する軍人でした。
 ラス・カーズはいわば廷臣のように主君を畏敬してましたが、グルゴーのほうは熱狂的で、ほとんど偏執的な感情をナポレオンに抱いてました。
 皇帝の寵愛を奪いかねない人間は、かれの憎しみの対象になります。
 だから、ラス・カーズはグルゴーにとって目の敵でした。