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物語
ナポレオン
の時代

    Part 1  第一統領ボナパルト

  
第2章 マレンゴの戦い

   6.戦士の休息

 アルプスを越えたボナパルトはジェノヴァに直行しない。
 ミラノに向かった。  
 戦争で敵軍の補給路をたつというのは定石のひとつであり、ウィーンとジェノヴァを結ぶ連絡と補給のラインを断ち切ることを優先したのだ。
 アルプス越えで疲労困憊した兵士たちを休息させたい、という事情もあった。

 ボナパルトはミラノに1週間も滞在した。
  スカラ座にも出かけている。この有名な劇場はすでにあった。
 のんびりしているようだが、これが当時の戦争のしかたである。
 兵士は徒歩で移動したし、道路がどこも劣悪である。
 行軍の速度は、通常1分間に80歩。
 このペースだと、一日の移動距離は約30キロであり、オーストリア軍の主力が北イタリアにくるまでに1週間から10日はかかるのである。

 6月4日、ジェノヴァのマッセナ将軍が降伏した。
 ボナパルトはその情報を4日後の6月8日にキャッチした。
 オーストリア軍の急使が偶然ミラノでつかまり、携えていた通信文が発見されたのだ。
 ドイツ語で書かれた通信文が翻訳されると、それに目をやったかれは叫んだ。
 「正確に訳しているのか?」
 
 こうなったからには、ミラノでのんびりオーストリア軍を待ってはいられない。
 こちらから探しに行って、戦闘にひきずりこまなければならない。
 6月9日、ボナパルトはともかくミラノを発ち、南に向かった。
                         (続く
   
 


             スカラ座

 スカラ座は、パリの「オペラ座」とニューヨークの「メトロポリタン・オペラ・ハウス」と並んで、
オペラの三大殿堂といわれます。
 このなかでもっとも長い歴史をもつのが、スカラ座です。
 できたのは、1778年。
 建物の外観はさほど豪華でありませんが、内部に入ってみると、その壮麗さに目をみはります。
 平土間はそれほど広くありませんが、周囲の桟敷席が独特です。
 一階から六階まで、美しい円柱が半分に切られたように、桟敷席が舞台と相対しているのです。
 この時代のスカラ座は、現代でいうなら劇場であると同時に映画館でもあり、テレビのある小宴会
場の集合体でした。
 ひとつひとつの桟敷席は、それぞれが小さなサロンと呼べるほどのスペースがあり、控え室までつ
いている。 飲み物をのんだり、かんたんな食事もできました。
 ミラノの貴族やブルジョワたちは、人を自宅でなくスカラ座の桟敷に招くのがふつうでした。年間
を通してそこをレンタルしていたのです。  
 この1800年6月のある晩、ボナパルトが劇場に到着すると、着飾ったミラノの観客たちは盛大な
拍手をしました。この30歳の将軍が4年前にこの地でいかに輝かしい武勲をあげたかを、よく覚えて
いたからです。
 あのとき遠征軍の司令官であった男が、いまやフランスの元首なのです。