本文へスキップ

物語
ナポレオン
の時代

    Part 1  第一統領ボナパルト

   
 第8章 戴冠式 

   4.古代ローマのイメージ 

 ボナパルトは1804年に皇帝になったが、なぜ「王」でなく「皇帝」という称号を選んだのか。
 両者は実質的に同じだし、王のほうが国民にはなじみ深い。
 タレーランはそう考えて、「王」になることを進言していた。
 ボナパルトはその進言を退けた。
 第一に、「ブルボン家の王たちとは違う」ということをアピールしたかったのだろう。
 つぎに、王という称号にはなにかしら封建的な、古くさい匂いがある。それが嫌だったのだろう。
 第三に、偉大な古代ローマのイメージを喚起したかったから、と考えられる。

 統領政府は発足時から古代ローマを意識していた。
 そもそも「統領」(フランス語では「コンスュル」)が、古代ローマの「コンスル」(執政官)からきている。
 「元老院」はもちろん、「元老院決議」も古代ローマの「元老院最終勧告」から借りている。
 「護民院」についてはまえに説明したので、くりかえさない。
 政治用語だけでなく、絵画・彫刻・服飾・家具などでも、この時期のフランスでは古代ローマが模倣される傾向があった。

 それは帝政期になってからも続く。
 建築や記念建造物では類似はさらに顕著で、柱廊、軒蛇腹、円形の浮き彫り、金泥塗りなどが多用された。
 マドレーヌ聖堂(ローマ風というよりギリシャ風であるが)、証券取引所、ヴァンドーム広場記念碑などが好例である。
 シャンゼリゼの凱旋門、カルーゼルの凱旋門の建造がはじまったのは、帝政期である。
 凱旋門ほど古代ローマを連想させるものはない。ポンペイウスもカエサルもその下をくぐってローマに帰還したのだ。
 ナポレオン軍の軍旗は旗竿の先端に金色の鷲がついているが、これも古代ローマの軍旗にアイデアを借りている。

 疑いもなく、ナポレオンは古代ローマのイメージをことあるごとに取りこもうとしたのである。
                                                      (続く)