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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第3章 総督ハドソン・ロウ  

   9.銀器売却事件

 ロングウッドの年間経費が1万2千ポンドに減らされたことは、それが妥当かどうかはさておき、そで暮らす者にしてみれば、「生活をきりつめよ」と命じられことになる。
 不機嫌になったナポレオンは、従来どおりの生活を維持するために銀器を処分するといいだした。
 ふだんの食事に必要な食器は別として、それ以外の銀の大皿小皿などを島で売りに出すという。
 皿には鷲の紋章がついているが、それを槌でたたいてつぶす作業は召使いたちがおこなった。

 銀器は10月15日、11月15日、12月30日の3回に分けて売却された。
 計量されて値がつけられたが、ぜんぶ合わせて230キロ。
 パリから運ばれてきたことを考えれば、相当の重さである。
 代金はしめて1065ポンド(約2千7百万円)になった。
 これらの銀器は昨年の6月にエリゼ宮から退去するとき、フーシェの了承を得たうえで持ち出したものである。
 いざという時のために備えたのであろうが、ナポレオンの周到さには舌をまく。

 この売却金は、その一部が島から追放されたばかりの4名の手当にまわされ、残りは日常のこまごまとして支払いに当てられた。
 1065ポンドというのはロングウッドでは一ヶ月分の費用に過ぎず、たちまちなくなってしまう。
 しかし銀器処分「事件」が作り出した心理的波紋は大きかった。
 ナポレオンはそれを予測していたと思われる。

 ジェームズタウンに定期的に買い出しに行くチプリアーニは、顔見知りから「皇帝はお元気か?」と問われると、聞こえよがしに答えた。
 「銀器を売って食いつないでおられるけれども、いたってお元気だ」
 銀器の目方を計るところを目撃した者の口からも、同じ噂はひろまる。
 本国に戻ったイギリスの海軍士官たちも、あちこちでこのニュースを話の種にした。

 やがて「事件」のてんまつは政府首脳の耳にまで達した。
 年間経費を1万2千ポンドにするというロウ総督の提案が
、あっさりとバサースト大臣の追認を受けたのは、おそらくこれと無関係ではない。
                (次章に続く