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物語
ナポレオン
の時代

       Part 3 セント・ヘレナ

   
第5章 病変と臨終   

   1.主治医を欠く

 ナポレオンは1817年の冬ごろまでおおむね元気だった。
 ただし「冬」といってもセント・ヘレナ島のある南半球における冬であり、ヨーロッパでは夏になる。
 風邪を引いたり、微熱をだしたり、下痢をしたり、歯痛に悩まされたりはした。
 が、その程度のことは以前からよくある。
 若いときからの戦場生活。馬車での長距離の移動。
 くぐり抜けた多くの危険。受けた大きなストレス。
 そうした人の何倍も苛烈な人生を送ってきた人間にしては、ナポレオンは健康に恵まれていたといえよう。

 ところが1817年の暮れごろから、ナポレオンは身体の不調をときおり訴えるようになる。
 それが仮病でないのを見てとったベルトラン将軍は、翌・1818年3月にフェシュ枢機卿に手紙を書き、だれか良い医師を島に派遣してほしいと依頼した。
 枢機卿はナポレオンの母親レティツィアの異父弟であり、2人ともこの時期ローマに住んでいた。
 1818年の3月には、オマーラがまだセント・ヘレナ島にいたのだが、この軍医だけでは心もとなかったのだろう。

 ロウ総督との関係がこじれてオマーラ軍医が島から追放されたのはその5ヶ月後で、ナポレオンの右脇腹に
腫脹があるという診断書を残して出して立ち去ったことはすでに述べた。
 それを気にしたロウ総督はまず軍医バクスターを、つぎにもうひとりの軍医ヴァーリングをロングウッドに送りこんだ。
 しかし両軍医ともに、ナポレオンによって門前払いをくわされる。
 総督の息のかかった医師の診察など受けたくないというのだ。  
 気の合うオマーラをいわば取り上げられたことへの抗議の意味もあったのだろう。

 こうして何ヶ月か医師のいない生活をしているうちに、ゆゆしき事態が起きた。
 ナポレオンが失神したのである。
 ベルトラン将軍があわてて医師の派遣を乞い、イギリス人軍医が駆けつけた。
 ジェームズタウン沖に停泊していた軍艦コンケラー号の船医ストコーである。
 ナポレオンを診たストコーは、慢性肝炎ならびに重度の便秘という診断をくだし、薬を投与し
瀉血をほどこしてから帰った。

   続く