物語
ナポレオン
の時代
シーソーに乗ることにすら疲れるらしく、ナポレオンは間もなくやめてしまった。
単調で面白くなかったせいもある。
寝室、サロン、食堂などをのろのろと歩きまわる。
ときには部屋着のままで首にマフラーを巻いて庭に出た。
いつも寒気がする。
足が冷えるといって、マルシャンに命じて熱いタオルで足をくるませることもある。
夜間によく寝汗をかいた。
「熱は蛇のようにやってくる」と、いまいましそうに呟く。
肉を食べられなくなり、ポタージュや煮こごり、あるいはゼリーなどを食することが多くなった。
もともと顔色は悪いのだが、このころには黄ばみはじめる。
3月17日、ブオナヴィータ神父が、別れの挨拶にきた。
この老聖職者はしばらく前から身体の具合が思わしくなく、島を離れることになったのだ。
ナポレオンは寝室に老神父を迎え、金貨を与えてその労をねぎらい、ローマの家族への伝言を頼んだ。
ブオナヴィータが島に来たのは1年半まえである。
その時の皇帝の様子を思い浮かべ、いま目の前のやつれた顔を見て、老神父は涙を抑えられなかった。
この時期になると、アントンマルキも患者の病気が容易ならざるものであるのに気づき、医師としての能力に自信がもてなくなったのか、ロウ総督に辞任を申し出たりした。
ナポレオンはこの医師が処方する吐剤を嫌がった。
胃が痙攣し、嘔吐で苦しむからである。
「やぶ医者め」と罵倒し、出て失せろと叫んだ。
アントンマルキが他の医師に相談させてほしいと弱音を吐いたので、ベルトランとモントロンが相談して第20連隊付き軍医アーノットを主君に勧める。
ナポレオンは「病状をロウ総督に報告しないなら」という条件をつけて、このイギリス人医師の往診を受け入れた。
重症であるのを自覚していたのだ。
「今年じゅうに死ぬだろう。せいぜい持っても、来年だ」という言葉を口にしたのはこの時期、すなわち1821年2月ごろである。
(続く)