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物語
ナポレオン
の時代

      断章 帝政期    

  
   5.トラファルガルとアウステルリッツ
  

 皇帝になってからも、少なくとも初めの数年間、ナポレオンは内政面で業績を積みかさねた。
 しかし外交はどうか。
 イギリスとの関係は、アミアン条約の破棄以後、にらみ合いの状態が続いている。
 強気のナポレオンは、海を越えてグレートブリテン島に攻め込もうと企てた。
 皇帝に即位した翌年・1805年のことである。

 イギリス海軍は強大であり、戦っても勝ち目はないので、同盟国スペインと連携することにした。
 仏西連合艦隊がいつ英仏海峡をわたって上陸作戦をおこなうか、その日程まで決めたあとで、厄介な事態が生じる。
 東ヨーロッパでロシアとオーストリアが軍を動かしはじめたのだ。
 迅速に対応しないと、挟み撃ちにされてしまう。
 ナポレオンはやむをえずイギリス本土侵攻作戦を延期し、南ドイツに自軍を移動させた。
 ウルムでオーストリア軍を撃破し、さらにモラヴィア方面に向かいかけたとき、思いがけぬニュースが届く。
 仏西連合艦隊が
ネルソンの艦隊に攻撃され、壊滅的な敗北を喫したのだという。
 場所は、スペイン南端のトラファルガル沖。
 ナポレオンは呆然とした。
 これからの何年か、いや何十年か、イギリス本土に侵攻することはできないだろう。

 しかしその1ヵ月半後。
 フランス陸軍はモラヴィア地方のアウステルリッツでオーストリアとロシアの連合軍と戦って、快勝する。
 勝敗を決めたのは、ナポレオンの作戦の冴えだった。
 この戦闘には、オーストリア皇帝フランツ1世、ロシア皇帝(ツアーリ)アレクサンドル1世も出陣していたので、ナポレオンを加えると皇帝3人になる。
 それゆえに人びとは、アウステルリッツの戦いを「三帝会戦」と呼んだ。
 フランス国民は「三帝会戦」にナポレオンが完勝したことに、満足した。
 しかも戦闘の日は、戴冠式から一周年になる12月2日である。
 トラファルガルの海戦でこうむった手痛いダメージも、なかば以上、アウステルリッツの輝かしい勝利で忘れ去られたかに見えた。
         (続く)