Part 1 第一統領ボナパルト
第6章 裁判
2.ツァー・アレクサンドル1世
フランスが国際法を無視してバーデン公国領内に入り、アンギャン公を拉致してパリに連行し、おざなりな裁判をやったあとで、銃殺刑に処した。
このニュースはすぐさま国境をこえ、イギリス、オーストリア、プロイセン、ロシアなどに伝わる。各国は驚いた。
とりわけ上流階級はショックを受けた。
国が違っていても、王侯貴族のあいだには連帯感がある。かれらは、ボナパルトによって、ある神聖なものがけがされたと感じた。
もっとも敏感に反撥したのは、ツァー(ロシア皇帝)アレクサンドル1世である。
父親パーヴェル1世の時代に、アンギャン公がペテルブルグを訪問したことがあり、アレクサンドルはそれ以来個人的な親近感を抱いていた。
ツァーはペテルブルグのカトリック聖堂で皇族と宮廷・諸外国の外交団による葬礼ミサをおこない、そのあと1週間の喪に服す。
それだけでは気がすまず、フランスに国交断絶を宣言しようとした。
もっとも、側近がいさめたので思い直し、抗議声明を発するだけにとどめた。
アレクサンドル1世の抗議文に目をとおしたボナパルトは、同じような調子でロシア政府に対応せよと命じた。
外務大臣タレーランは指示された以上に辛らつなトーンの返書をつくらせ、しかも内容の一部を政府機関紙『ルモニトゥール』に掲載させる。
いわく「わが国の国内問題にロシアが介入する権利はない。フランスはパーヴェル1世が”暗殺された”ときに、いかなる干渉もおこなわなかった。」
露骨な皮肉をいったのである。
前ツァー・パーヴェル1世は、公式の発表にある「卒中」で死亡したのでなくじつは暗殺されたのだ。しかるに、アレクサンドル1世は父親の殺害者を処罰しなかった。
フランス政府の返書はその事実をほのめかしている。
タレーランがこれほどムキになったのは、アンギャン公の事件にかれ自身が深くかかわっていたからであろう。(続く)