弥陀本誓願 みだほんせいがん
極楽之要門 ごくらくしようもん
定散等回向 じょうさんとうえこう
速証無生身 そくしょうむしょうしん
[ 読み下し文 ]
弥陀の本誓願 は 極楽の要門なり
定散 等しく回向して、 速やかに無生身 を証 せん
[ 訳 ]
阿弥陀仏の
定善・散善など(の諸々の修行によって得た功徳)を回し向けて、速やかに無生身を得ましょう。
説明
読経の後は、“お経を読む”という善行の功徳を自分や他人のために回し向けるために「
この本誓偈は、その回向文の中の一つで、“自身の極楽往生のために功徳を回し向ける”ための偈文です。
阿弥陀仏がおたてになった(念仏往生)の本願・
阿弥陀様は仏になられる前に、仏になろうと発心して“私はこういう仏になりたい”と四十八の誓願(本願)をたてられました。
この内容は『無量寿経』というお経の中に詳しく書かれているのですが、この四十八願の十八願目に、『念仏往生の願』があり、そこには
“念仏すれば誰もが必ず往生できる”ということが説かれています。これは私達が極楽に往生するためにとても大切なお誓いなのです。
次の定善・散善とは、「観無量寿経」というお経に説かれている修行のことなのですが、
定善…精神統一した状態で行う善行
散善…精神統一していない状態で行う善行 のことです。
お念仏をすることだけでなく、私たちが日々の生活の中で行っているゴミを拾う、席を譲るなどの行為も善行となり、功徳になります。
これらを合わせて定散の善行の功徳を分け隔てなく等しく、往生のために回し向けるということですね。
無生身とは、“もはやこの迷いの世界に生まれ変わることのない身”という意味で、証するとは“その境地を獲得すること”です。
ですので後半は“善行の功徳を回し向けて、速やかに極楽往生の境地を得て悟りに至りましょう”という意味です。
つまりこの偈文をお唱えすることで、直前に行った“読経”での功徳や日頃の善行の功徳をすべて極楽往生のために振り分け、
極楽往生を目指しているのですね。