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テニスの道具について思うことがある。(適応力という立場で話したい。)
確かに自分にフィットした道具は実力を超えた真価を発現してくれるだろう。
状況に合った靴底のシューズを履くのは有効である。クレーコート・オムニコートにはクレーコート用の靴を、ハードコートには
ハードコート用の靴を履く事である。コートと靴とのミスマッチは、実力を大きく減額するだろう。
その意味で、オールコート用の靴は、どちらにも適しているとなっているが、どちらにも適しているということは、厳密には、
どちらにも適していない事を意味する。つまり出来れば、どちらか専用の靴を履く方がよい。
靴に比して、ラケットは、ある程度は大雑把でいいだろう。もちろん慣れるまでには時間が要るが、遊びに行った先でテニスするのに、
自分専用のラケットでなければ、実力が出ないというのはどうだろう・・・。
むしろ生きる上では、適応力が必要で、自分の身体の中に実力を保持し、ラケットはあくまでも1つの道具として利用するのである。
在る物を適宜に利用することこそが、望まれる。
『弘法筆を択ばず』とは、道具ではなく、個人の実力に寄る事を示している。よい筆は実力をカバーするが、実力を超えた作品は 本物ではない。裸での勝負ではない、と思う。
人の最終的な評価について、こんなことを聞いたことがある、『人は、棺おけに入って評価される。』と。
社会的に得た物的な物は、みな無くなり、見えないがその人に蓄えられた”智的”な経験・能力が真の財産として評価されるからである。
技能・技術・学力等はこうした、その個人に専属に付着するものである。
物作りの基本とはなにか、在るものを活用して生かす、代用品を有効に使用する、ださいが確実に・正確に・誠実にというような、
地に付いた生き方をしたい。