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"石"も生きている?(自然周吾)

自分が生きている、生かされているという自覚ができれば、どんな状況に置かれていても、生きていることになる。

動かないだろう"石"だって、生きているという自覚をもてれば、生きているのである。

他人が見て、他人から見られて、生きているのではない。自覚である。
存在していることが、生きていることになるのである。

果たして、我は、生きている自覚をもてるだろうか。全くの寝たきりになったとしても、生きている自覚を感じられるだろうか。 呼吸に空気の臭いを感じられるだろうか、空気の暖かさを、冷たさを、音を、乾きを感じられるだろうか・・・。
人の世話を受けながら、感謝の心で、呼吸だけを続けられるだろうか。

まだ五体が動く状況の中で、生きている確認が出来なくなってきていないだろうか。ささやかな近くの確認を見逃し、遠くの 大きな何かを渇望していないだろうか。100年、1000年のスパンでわずかに動くのを一生の中では確認できない。が、ほとんどの 物は、100年も持たずに、消えてしまう。
動かない物の中に、生命を感じられたらすごいと思う。

(07/10/18)
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<追記>
●10/11(木)義母 F・晴子 が3年余りの闘病の結果、88歳で亡くなった。パーキンソン病で、寝たきりで身動きできず、意識ははっきり していたようだが、言葉も不自由であった。過酷な試練を与えられていた。カトリック信者の信仰心だけでずっと、生き続けられたのだと思う。
10/11は奇しくも義母の実父の命日とのこと・・・。
今は不自由な肉体を離れ、自由な身(精神・魂)で信仰の世界に呼ばれていると信じる。
魂の存在を信じなくては、義母の闘病の証は考えられないからである。私は信者ではないが、魂の存在を信じている。肉体と精神は別々 に存在するのではないかと思っている。
(07/10/19)(▲写真:10/13告別式、中野徳田教会にて-クリックで拡大)
●11/18(日)五日市のカトリック教会墓地に納骨に行く予定である。(11/13)