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 1946(昭和21)1月東京に生まれる

叔父から「23歳の頃、よく駅(東上線武蔵常盤:現在のときわ台)に電車を見に連れて行ってやったので電車の魅力に憑かれたのだろう。」と云われたことがある。多分、これがきっかけで、鉄道と縁が切れない運命になったと思う。

庭に線路を書き、その上に角材を電車に見立てて手で押して遊んだが、今にして思えば、これがレイアウトの夢の始まりだったと思う。

最初に模型屋の存在を知ったのは昭和27年で、おもちゃとは違う0番の電車模型が飾ってある店を志村坂上で見つけたときである。それまではおもちゃ屋通いであったが、ブリキ電車とは違う電車が鮮烈に脳裏に焼きついた。

初めて鉄道模型を手にしたのは、6年生になり立ての昭和324月、中板橋駅北口前に模型屋ができ、その店の店主が作ったと思われるペーパー製栗色地に緑の窓帯の手塗りツートンカラーのモハ73とクハ16の0番模型であった。その後、中学1年まで0番模型に夢中になった。しかし、その後模型屋で目にする16番模型の精巧さに次第に気が惹かれていった。当時の小遣いでは高嶺の花であったが、買う部品を減らして自分でつれば何とかなるだろうと考えた。鉄道雑誌も高価で中々手に入れられなかったが、16番の魅力につれられて鉄道模型趣味誌128号を購入した。記事を読んで夢が広がり、16番への転向の決心がついた。

すぐに作り出したのが、オハ61とオハユニ61。これは、0番で作っていたため、その寸法を半分にすればよいとの考えであった。屋根板と床板は市販品を買ってきて、それに合わせてペーパーで車体を作ったが、できたものは幅に比べて背が低く車体断面形状が変なものになっていた。このとき、縮尺を知った次第である。それまでは、Oゲージの半分がHOゲージと思っていた。

この年(昭和34)6月に動力車のとしてC62を入手し、走るようになった。雑誌で先輩諸氏が鉄道名を付けていることを知り、我が鉄道にも名前がほしくこの年の干支の己亥(きがい)を採って、己亥鉄道と命名した。

中学時代は鉄道模型をやっている友人が数名いた。この中で、先見の目を持っているMS君がいて、真鍮板を糸鋸で切って、万力で曲げてC62を製作し始めていた。これが大きな刺激となって真鍮工作を始めた。彼がある日、教室に車輪を持ってきて「これ何か分かるか」と尋ねられた。それが13mmゲージの輪軸であったのである。彼いわく「鉄道模型社のC62下回りを買ったがメインロッドの先が内側に曲げてクロスヘッドにつけてある。調べてみると16.5mmゲージの蟹股のためだと分かり、試しに13mmゲージに改軌した」。

これがきっかけとなって、13mmゲージに入門したのである。

真鍮工作は、中学時代に吉田裕之氏の記事でD52に挑戦したが挫折して、高校時代にC57を作り始め予備校時代に完成させたものが最初である。

模型製作には、実物を見る必要性に気づき、中学3年の時にカメラを買ってもらい、撮影が始まった。ちょうど、C62牽引の特急はつかりの最後のときで、上野駅ホームで撮影ができた。高校時代、大学時代には各地へ撮影旅行に出かけた。目的は模型作りのための写真で対象は国鉄車両がメインであった。

就職は車両に手を染めたく、車両製造会社に入社した。37年間、設計業務に携わり6年前に定年を迎えた。在職中、会社の100周年を迎える機会に車両史を鉄道史資料保存会と共同で刊行することができた。

以降現在に至る。

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