誤解@
その、すれ違いのきっかけは些細な事だった。
まだ半助が、子供達の治療をせんと訓練を重ねている途中のこと…。
「…なんで、こんな」
半助は、粉々に砕けたワイングラスを呆然と見下ろしていた。
予想外の事態に早まった鼓動を治めようと、深い呼吸を繰り返すばかり。
「半助、大丈夫…か?」
伝蔵は、目の前で起こってしまった事態に対し、冷静に声を掛ける。
しかし、半助の方は動揺を隠せなかった。
ショックに強張っていた顔が、自己嫌悪に曇っていく。
「今まで…こんな風になることなんて、なかったんです。そうでなかったら、先生に見てもらおうなんて思わなかった」
半助は、訓練の成果を披露しようとしただけだった。
それは…
手にしたワイングラスに水を張り、その表面だけに気を通すというもの。
自分以外の対象物に自らの精気を伝える、精気制御訓練だった。
薄く、均等に通すことが出来た時だけ、水面に等間隔に綺麗な波紋が広がる。
生物の細胞に気を通すことは、もっとデリケートなことで、半助が目指す治療を見越した訓練だった。
伝蔵に手本を見せてもらった時は、簡単そうに見えたのに…半助は苦戦した。
実際やってみると、水面を通す気の方に意識が行くと、マスターした筈の体内の気のコントロールが疎かになり、暴走しそうになるのだ。
しかも、伝蔵の広いマンションは、元々伝蔵の気…つまりは、半助の気と相性が良いが、部屋によって微妙に差があり、一つ所で上手く出来るようになったとしても、体調や、土地との相性、月齢など、その微妙な差でさえ、半助には影響を与えてしまうのだ。
そんな様々な環境の変化に対応出来なければ、身に付いたとは…とても言えない。
それでも、やっとどの部屋でも、綺麗な波紋が描けるようになっていたのだ。
まして今居るのは、寝室の次に土地からの気の相性の良いリビング。
身体を流れる精気に異常は感じられなかったし、安定していた。
しかし…
伝蔵の目前で、グラスに気を通した瞬間、半助の想像を超える気が溢れ出したのだ。
結果、大量の精気が一点に流れ、高い圧力が掛かったことで、ワイングラスは粉々に砕け散った。
「どうして…?」
半助には、何故こんなことになったのか…訳が分からなかった。
ただ、伝蔵の視線を意識した途端、半助の中の精気が、それまでの制御レベルを遙かに超えたのだ。
それまで、半助は気が散ってしまうから、という理由で、一人で訓練していた。
いつもと違うのは、伝蔵の存在だけと言える。
(山田先生の…視線を感じた途端に…?)
一瞬のうちに、まるで半助の中の精気が増したようだった。
そうでないとしたら、精気が質量を増したか…。
いつもの感覚では、とても支えきれなかった。
しかし、半助はその考えを振り払うように、首を振る。
それは、どちらもあり得ない筈だ。
伝蔵から、【月氏】の気は、固有の型があると教わった。
精気の質が急激に変化する筈が無いのだ。
「きっと、私の『精気の泉』のコントロールが甘かったんです。そうとしか…」
まず始めに習った、体内の気の制御…それが完全ではなかったのだ。
半助は、そう思うと、勇んで次の段階に進み、それさえ習得した気になっていた自分が恥ずかしくなった。
「もう一度、基本からやり直さないと…」
半助は、水浸しになったテーブルに散っていた、ワイングラスの破片をかき集めた。
片付けようとしたのだろうが、半助らしくない乱暴な手付きだった。
「な…半助、素手じゃ危ない」
伝蔵の言葉は間に合わなかった。
「ぁ…痛っ!」
当然の様に、割れたガラスは半助の指を傷付け、皮膚を破る。
まるで…自らを傷つけたくて、そうしたかのような行動だった。
「…半助」
ぱくりと切れた傷口から、ポタリ…と血が垂れた。
伝蔵はその手を取ると、迷わず口に含んだ。
「や…山田先生…っ!」
半助は手を引こうとしたが、伝蔵が許さなかった。
伝蔵の舌先が、ぬるり…と傷口を撫でる。
「…っ、…ん」
伝蔵は、怪我を治療してくれているだけなのに…。
半助にとって、それは愛撫と同じだった。
「山田、先生っ…」
もう、堪らない。
…身体がゾクゾクする。
体内の気が…精気の泉が、沸き立つ。
たったそれだけのことで、体温までがジワリ…と熱を上げた。
こうなると、まるで抑えが効かなくなる。
伝蔵に、抱き締めて欲しい。
触れて欲しい。
半助の中に、ハッキリと欲情が芽吹く。
半助は、何もかもが恥ずかしくて堪らなかった。
いい気になっていた自分…
すぐに…こうして伝蔵に甘えてしまう自分も…。
「お前が悪いんじゃない…半助。」
伝蔵の言葉は、慰めでもなんでもなかった。
…それは、事実なのだ。
半助にとって、一番影響を与えるのが……己の存在だという事。
伝蔵は、それを実感していた。
半助も、精気を上手く扱えるようになるに従って、分かってくるだろうと、思う。
それまで普通に出来ていたことが、伝蔵の存在一つで、急に不安定になる。
勿論、訓練している時も、伝蔵は同じマンションの中にいる。
しかし同じ部屋ともなると、伝蔵の視線を意識するのだろうか、途端に半助の体内で精気が質を深めるのだ。
型が変わるのでは無い。気が熟成するのだ。
濃厚なそれは、同じ精気でありながら、甚大な力を秘めている。
普通の状態の精気と同じように制御出来る筈がないのだ。
その上、伝蔵は半助を愛おしむ行為を止められない。
半助が側に居て、それを我が胸に抱くこと、情を交わすことが当たり前になっている。
相愛の者同士が共に居るのだから、それは至極当然のことなのだが、伝蔵の精気をその身に受け入れることで、その度に半助の精気のバランスは崩れる。
その両方が、半助の訓練の妨げになっているのだ。
半助が【果実】としての能力を有しているからこそ起こる現象。
しかし…
伝蔵は、その重要な説明を、半助にはしていなかった。
いつかしなくてはいけないと思いつつ、先延ばしにしてしまっていた。
伝蔵の強行した【華燭の典】は、伝蔵は半助を完全な【月氏】にする事は出来なかったのだ。
【果実】としての能力のある【月氏】…それが半助だ、と。
それは、他の者にしてみたら、垂涎ものかもしれない。
しかし、純粋に半助との未来を考えていた伝蔵にとっては、自分の能力が足りなかった証拠としか思えない。
雅之助の『規格外品』という発言に、酷く傷付いていながら、それを隠そうとした半助。
半助は、普通の【月氏】になりたいのだと…伝蔵は思っていた。
自ら決めた目標の為、日々【月氏】としての能力を身に付けるための訓練に励む半助に、【果実】の能力が邪魔をしているのだとは…言えなかった。
伝蔵は、縋り付く半助からフワリと漂い始めた、熟れた香りに気付く。
半助の中の精気が、熟成し始めているのだ。
こんな、真剣に訓練に取り組む半助を阻むように、自分が近付き、その様子を見ていただけにも関わらず、半助の【果実】の質に火を付けてしまった。
あくまで、怪我した半助を治療したのは、その痛々しい姿に心を痛めたから。
今までの努力が意味を成さなかったかの様に悔やむのを、そうでない…と慰めたかったからだ。
まだ、精気の制御が完璧ではない半助に、あんな風に触れたら、どうなるのか…頭では理解していた。
しかし、予想以上の劇的な変化に、魅入ってしまった。
伝蔵は、欲情に濡れていく半助から目が離せなくなった。
同時に、伝蔵にも…舌に残る半助の精気、その甘美な感覚が蘇る。
今にも半助を抱き締めて、何も考えられないほどに狂わせてやりたくなる。
そんな顔をさせておくくらいなら、諸共に精気の渦に巻かれても良い…とまで思ってしまうのだ。
伝蔵自身、本能的に、半助の【果実】な部分に強く惹かれている。
しかし、伝蔵が半助と同衾するのは、半助という人格、全てを愛しているから。
そして、半助にとっても伝蔵が唯一無二の相手だからだ。
だから……
半助を抱き寄せるように肩に添えていた伝蔵の腕が、ビクリと震えた。
だから…?
半助を抱くのが当たり前だというのか?
こんな風に訓練に励んでいる半助の意志を無視するように?
それは、愛しているから…という大義名分の元に、本能のままに半助を貪る行為ではないのか?
自分の気持ち1つで、簡単に精気を沸き立たせる半助を、このままにしておけないと思うのに……半助に惹かれる気持ちを止められない。
「悪いのは…わし、かもしれんな」
伝蔵はぽつりと呟く。
半助に、その言葉はあまりに小さく、聞き取れなかった。
「山田先生?」
伝蔵は、半助の問いに答える事無く、その身体をグイ…と押し戻した。
訝しげに伝蔵を見上げる半助。
「山田…先生?」
常とは違う伝蔵の様子に、半助は縋るように伝蔵を見つめ続けた。
「半助…今は、少し休んだ方が良い。調子が悪かっただけだ。すぐに、元に戻る」
伝蔵の言葉に、半助は拒まれたことを知る。
瞬間、半助の顔は真っ赤に上気した。
「……先生っ!」
こんな事は初めてだった。
いつも、大らかな心で…はしたない位の半助の求めにも応じてくれていた。
こんな風になってしまった自分を放って置かれた記憶は、半助には無い。
――他の人たちは…皆、半助の意志を無視して、したいことだけ済ますと、何時しか…いなくなった。
伝蔵から、そんな仕打ちを受けたことは無かった。
受ける筈がない。
……無い筈だ。
「山田先生…私……」
半助の中から、続く言葉が出なかった。
問うて、認められてしまったら…そんなことには耐えられない。
半助の中に、そんな覚悟は一欠片も無かった。
あんなに騒いでいた『精気の泉』が、嘘のように静まりかえっていく。
そのままでいたら、無様に倒れてしまいそうだった。
伝蔵は、そのまま部屋を出て行こうとする。
震える半助を見ていたら、抱き締めてしまいそうだったから…なのだが、半助に知る由もなかった。
咄嗟に、半助は止めるように伝蔵の服を掴む。
「大丈夫だ。訓練の成果は十分出ている。今も暴走することなく自力で抑えられただろう?」
そう言いながら、伝蔵はやんわりとその指を引き剥がした。
努めて冷静に。
しかし、半助の顔を見ることも出来ず、視線は逸らされたままだった。
訓練の為には、伝蔵の肉欲は邪魔なのだ。
半助のために、僅かばかりの間、本能の求めには目を瞑ろうと…伝蔵は決めた。
それは、本当に辛いことだ。
しかし…伝蔵の、半助への想いは…それを凌駕するのだと。
伝蔵は、半助の成長の妨げにだけは、なりたくなかった。
自分の気持ちだけで一杯だった伝蔵に、半助を顧みる余裕はなかった。
――続く