誤解A

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(今日も…何か、用事があったのだ。)
だから、少し出掛けてしまっただけ…。
半助は、そう自分を宥める。
伝蔵の不在くらいで、慌てたり、パニックになるようなことはしたくない。

半助は寝室で一人。
「山田先生…」
その口から、名が呼ばれても、返事は無い。
あの日、半助が訓練の披露に失敗してから、伝蔵は極端に外出が増えた。
失敗しても精気を一人で抑えられた事で、安心して出掛けられる…と言っていた。
でも、それが言い訳である事は、分かっていた。
「山田先生…」
あんな失敗をするまでは、いつも一緒に居てくれた。
同じ部屋にいなくとも、別の部屋に居る…その存在感だけで安心出来た。
それが、今は家に居ることの方が珍しいくらいで…。
半助は、枕に顔を埋める。
こうしていても、伝蔵の残り香さえ無い。
あの日から、伝蔵は寝室さえ分け、別の部屋で寝起きするようになったのだ。
利吉が出ていって空になっていた部屋に、新しいベッドが持ち込まれていた時のショックは、今でも忘れられない。
夜も…半助がねだるまでもなく、伝蔵の方から求めてくれた。
いつの間にか、一緒に眠ることが当たり前と思っていたのだ。
伝蔵が、そう思わせてくれていた。
それが、こんなことになってみると、理由は半助にあるとしか思えない。
半助が…嫌になったとしか。
そんな事は無いと思い込もうとしても、半助の胸は重苦しく痛む。
さり気なく理由を聞いても、はぐらかされるばかり。
きつく問い質す勇気も、自信も……無い。
(むしろ、今までの方が夢…だった?)
不安で、不安で…。
半助は、伝蔵の足枷だけにはなりたくないと思っていた。
無様なところも…今更と言えば今更だが、見せたくないと思っていたのに…。
とうとう今日、出掛ける伝蔵に、縋り付いてしまった。
一人にしないで欲しい…と。
半助の言える、精一杯の我が儘だった。
訓練どころか、半助の精気が酷く不安定になっているのも、伝蔵には分かったと思う。
それでも、出掛けてしまった。
どうしても外せない用事があるから…と。
聞いたところで分からないけれど、行き先を告げることもなく。
それは…やんわりとだったが、明確な拒否だった。


ピンポーン。
来客を告げるチャイムが鳴り響いた。
「…誰?」
一人の時の来客は初めてだ。
基本的には、対応する必要は無いと言われていた。
伝蔵にとって不都合な相手も多いのだそうで、同族相手ならば、中から呼び込まない限り、結界の張られている家に押し入られる事はない。
人間ならば、ドアを開けなければ済むことだ。
ピンポーン。ピンポーン。
しかし、続けざまに鳴るチャイムに、半助は腰を上げた。
一応のつもりで、インターホンの画面で相手を確認する。
「あ…」
半助は慌てて、玄関まで駆け寄ると、扉に耳をピタリと寄せた。
管理の厳しいマンションで外部の人が、ドアの前まで来られた筈だ。
人の使う入り口からではなく、ここまで入ってきたのだから。
半助は、ようやく外にいる【月氏】の精気を確認する。
しびれを切らしたように、ドンドンと扉を叩いているのは…半助も見知った型だった。
「おーい!入れてくれないかな」
半助は思わず扉を開けていた。
「利吉くん!どうして…?」
「どうしてって、父上に頼まれたんですよ。取り敢えず、上がっても良いですか?」
利吉にとってここは、元々自分の家だったのに、こうして断りを入れられるのは心苦しい。
「あ、どうぞ、すみません」
利吉は、きょとん…と半助を見返す。
「何が、すまないんですか?」
「え、あ…いいえ、何でも…」
利吉と目が合って、半助は慌てて視線を落とした。
利吉のまっすぐな瞳が酷く眩しく感じる。
それで半助は、誰かと目を見て話すのが久しぶりな事に思い当たった。
そんなことも、してくれなくなっていたのだ…伝蔵は。
「何でもない…って感じじゃないですね。あなたも……父上もだ」
利吉の言葉に、半助は耳を疑った。
「え、山田先生も…って?」
半助は、部屋に入っていく利吉の後を慌てて追った。

「こんなもの入れて…新婚でラブラブな癖に」
利吉は、リビングに落ち着くこともなく、元自分の部屋だったドアを開け、大きな溜息をついた。
「いつからなんですか?どうして?」
「どうして…って」
「これじゃ、私が家を出た意味無いじゃないか…」
利吉は、小さく呟く。
それは、半助が聞きたい事だった。
「今日は、あなたを一人に出来ないから…と頼まれて来たんですが、父上が居れば良いことなのに、なんで私にそんなこと頼んでくるのか、不思議だったんです」
半助は、ハッ…と気付く。
朝、一人にしないで欲しいと無理を言ったから、だ。
まさか、利吉を呼ぶとは半助は、予想もしていなかった。
ただ、伝蔵を引き留めたい一心だったのに…。
「利吉くんにまで迷惑掛けることになるなんて…申し訳ないです…」
「そんなことじゃなくて、父上と何かあったんですか?」
「何か…って」
しようにも、何も…出来ないのだ。
ここ数日は、喧嘩をするほどの接触さえ無いのだ。
何か、あったとするなら、心当たりは一つ。
……あの失敗だ。
あれから、全てが…否、伝蔵はおかしくなった。
それで…こんな事になってしまった。
でもそれは、ほんの切っ掛けに過ぎなかったのかもしれない。
あの後…
最初の数日は、しっかり訓練して改めて成果を見せれば、また元通りになるだろうと思っていた。
目の前に、伝蔵という餌をぶら下げられている様で、我ながら可笑しかったが、それまで以上に、必死に訓練した。
あの時の失敗が嘘のように思える位には、上達したと思う。
次のレッスン方法を教えて欲しい程だった。
なのに…伝蔵の前に出ると、駄目なのだ。
もう一度、改めて見て貰うまでも無い。
伝蔵の側に居るだけで、精気がおかしなことになる。
訓練のお陰で、しっかりと自分の精気を把握出来るようになったからこそ、分かる変化だ。
今まで意識していなかっただけで、ずっとこうだったのかもしれない。
近付いて、その気を間近に感じるだけで、あの時と同じ感覚に襲われる。
もう失敗出来ないと、自分にプレッシャーを掛けすぎているせいかとも思ったが、そうではない。
気持ちの問題では無く、精気が変わるのだ。
半助にさえ分かることだ、伝蔵もとうに分かっていただろう。
それまでの訓練が、何の意味も成さなくなる事。
――つまり、半助が全くと言っていい程に、進歩出来ないという事を…だ。


「利吉くん、見て貰いたい事があるんだけど…良いかな?」
伝蔵が居なければ、出来るのだ。
ただ単に第三者の【月氏】の視線が駄目なのかどうか、試して見たかった。
またグラスを割っては困ると、最近はステンレスのボールを使っている。器自体の厚みがあるので、難易度は上がっている。
準備する半助を、利吉はじっと待っていてくれた。
視線を感じると、緊張感と…伝蔵に見られている時ほどではないが、精気に微妙な変化が起こる。
それでも、制御出来ないほどでは無かった。
「精気を通す訓練なんです。こうして…」
半助は説明しつつも、利吉の目の前で、ゆっくり力を解放した。
ワイングラスよりずっと大きい水面に、綺麗な波紋が広がった。
「なるほど、綺麗なものですね。」
それは、何の破綻もなく成功した。
「一人だと出来るようになっていたんですが、山田先生の前になると上手く行かなくて…人に見られると出来ないのかと思ったんですが…」
「…父上の前だと?」
半助は、こくり…と頷く。
「どうなっちゃうんです?」
「気が…急にコントロール出来なくなるんです。今も少しだけ変化したんですが、なんだか、急に重たくなるというか…支えきれなくなってしまって。精気に型があるのは、教わったんですが…それが変わるように感じるなんて…あり得ますか?」
「型が…変わる?」
「それまでと、同じ感覚じゃ制御できなくなってしまうんです。まるで質量が増えるみたいに…」
「それは…」
利吉は、口籠もる。

そんな事は、普通の【月氏】には、あり得ない。
何も媒介することなく精気が増減することは、まず無いと言って良い。
力を何かから得ている状態…例えば、食事をしたりすると、体内の精気量が一時的に増す。
それは、人間が食事を摂り、お腹が一杯になるのと同じことだ。
減る場合は、出血している場合など異常事態だ。
それが、伝蔵に見られるだけで……質量が増すという。
事実だとすると…利吉に、思い当たる原因は一つしかなかった。
気が増しているのではなく、熟成しているのだとしたら?
気の熟成……それは、【果実】だけが持つ能力だ。

利吉は、以前触れた半助の精気を思い出す。
ほんの僅かでも、トロリと濃厚で普通の精気とは比較出来ないものだった。
あの頃は、正確には半助は【果実】ではなかった。
まだ正式に【血の契約】を結ぶ前のもの。
それが、本当の【果実】の熟成した精気ともなれば、制御する加減を重さで表現するのなら、ズバリ重くなるという表現は正しい。
…しかし、謎も残る。
利吉は、半助を伝蔵の相棒と…相棒の【月氏】だと認めていた。
今の半助には、立派に伝蔵と同じ精気が流れている。
精気をコントロールするのも、【果実】には不可能。
半助は、【月氏】なのだ。
しかし、思い当たる節もあった。
二人が、【華燭の典】から復活した際、結界から出てきた半助に感じた…仄かな香り。
まさか…と思ったが、あれは気のせいではなかったのでは?
一見、普通の同族に見える半助が、実は【果実】の能力をも持っているとしたら…。
利吉は、思わず半助の全身に視線を巡らせていた。
「…利吉くん?」
それを敏感に感じたのか、半助はビクリと震える。
「あ…スミマセン」
自分が不躾な視線を向けてしまった事に思い当たり、利吉はすぐに謝罪する。
半助は、利吉に謝られたことで、逆に、利吉から感じたモノが気のせいではない事を知り、身を固くした。

半助は、思う。
…あの感じは、半助のよく知っている、性的な意味を含んだ視線だ。
子供の頃の事件の後、半助は特に敏感に感じるようになった。
身体の中まで暴かれるような、嫌な感覚。
もう、そんな視線を向けられる事は無いと思っていたので、半助は軽い混乱に陥る。
利吉とは、良い関係が結べるようになれたと思っていた。
不意に、以前…利吉に襲われたときの光景が、閃光を伴って次々浮かぶ。
鮮血に染まった利吉の腕と、とても敵わない圧力。
皮膚にのめり込む異物の感触さえ蘇ってきた。
「…っ!」
半助は、平静を装おうとしたが、出来なかった。
天井が、真っ白で…視界がグルグルと回り出す。
「半助さん?」
異常に気付いた利吉の伸ばした腕に、過剰に反応してしまった。
「な、何でも…ないです。」
口を押さえる半助の手はブルブルと震えている。
「ですが…」
「大丈夫です!」
半助は自分の声がいつになく大きい事をぼんやりと自覚する。
利吉が…怖い。
でも、それ以上に…
利吉にこんな視線を向けられるようになってしまったのは、自分なのだ。
好意的に受け入れられたと思っていたのに、それが…。
自分が、酷く下賤になったように感じられた。

伝蔵に一番近い身内である利吉に、
もう、伝蔵の共にいる資格は無いと言われたようで…。

それだけが…恐ろしかった。




――続く


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