誤解B
「…半助さん」
二人の間に、何とも言えない緊張感が漂っていた。
利吉にとって半助は、尊敬する父の相棒だ。それ以外の認識はない。
しかし、今見せた反応…。
利吉は、自分の迂闊な行動が招いた事態に臍をかむ。
半助が酷く不安定なのは、伝蔵が居ないことが一番の原因だが、自分と二人きりというのも大きいことに、やっと気付いた。
もう過去の事だと思っていたが、利吉は…人間だった半助を襲った事がある。
それは、伝蔵の相棒と息子という新たな関係の中で、影響は無いように思っていた。
少なくとも、今までの半助はそのように振る舞っていた。
しかし、それは加害者の思いこみだったのだ。
半助の努力の上に成り立っていた関係の上に、胡座をかいていた…それにようやく気付いた。
半助の中に、自分が犯してしまった罪は大きな影を落としている。
ふとした時に、こうやって顕在化してしまう程に…。
そんな自分に、一人でいる半助と共に居ろというのは、尊敬する父ながら…あまりに無神経だ。
それに…
―半助が【果実】としての能力を持っているかもしれない。
こんな、利吉でも予想出来ることに…伝蔵が気が付かない筈はない。
伝蔵は、全て分かった上で、半助にこんな仕打ちをしているということになる。
しかも、その原因について、本人には全く話していないのだ。
その上、何処とも知れず、出掛けてしまうなんて…。
利吉の中で、理不尽さに怒りが沸き上がった。
「私には…元々、山田先生の側にいる資格なんて無かったのかもしれない。利吉くんもそう思っているみたいだし…」
利吉が自らの考えに浸っているうちに、半助はとんでもない方向に考えを向けてしまったようだ。
「な…何を、言い出すんですか?!」
夢遊病患者の様に、フラリと立ち上がる。
口元を押さえたままなのは、まだ気持ち悪さが残っているからなのかもしれない。
「そんな事ないですよ、半助さん。あなたは、父上が命懸けで助けた、私を追い出してまで一緒に居たかった相手なんです。さっきの事は謝りますから…」
「…でも、今はもぅ…山田先生は居ない。」
「それは、父上が悪いんです。連れ戻して来ます。全部説明させましょう?あなたが遠慮する必要はないんです。」
返事をしてくれるだけマシだったが、半助の視線はフラフラと一定ではなく、それが求めるのは、山田伝蔵以外の何者でもないのが分かる。
元々限界が近かったのかもしれない。
半助が頼れるのは、山田伝蔵だけだったのだ。
今までは、むしろ伝蔵の方が半助を離さない感じだったのに。
それが突然、何の説明もなく一人にされたら…。
こんな風になってしまう事が想像出来なかったのか?
「そうです…父上が悪い」
利吉は、更に父への怒りを募らせた。
「違う!山田先生は悪くない、です。私がいつまでも…ちゃんと出来ないから」
「だから、それは…」
利吉は、思わず半助の肩を掴んでしまった。
「…っ!」
ビクン!と半助の身体が硬直する。
「あ…っ」
しまった!というのが顔に出ていたと思う。
半助は、分かってます…と口元で呟きながら、それでも後退る。
「半助さん」
「そんな顔しないで下さい」
どんな顔かは、利吉には分からなかった。
半助は、見ていられないと言った様子で、背を向け駆け出す。
「半助さん!」
覚束ない足取りで、真っすぐに向かう。玄関の方向だ。
半助は、強くなりたいと思った。
自分が、こんな風に怯えてしまうから、利吉にあんな悲しい顔をさせてしまった。
伝蔵という庇護が無ければ、こんな過去にも縛られて…怯えている。
伝蔵は悪くないのに、伝蔵を連れ戻すという利吉。
それは、自分が伝蔵のところへ行けないことを知っているからか?
例え、伝蔵の所へ向かうといっても、伝蔵の…この部屋の結界から抜け出す事は出来ないのだ。
それでは…また、伝蔵に迷惑を掛けてしまう。
訓練なんて、しなければ良かったのか?
そうは思いたくない。
あのまま、安穏と伝蔵の庇護の元にいたら、もっと早く伝蔵から呆れられていただろう。
ふっ…と、半助の頭に浮かんだ思いつき。
――この結界から、出られたら…伝蔵も認めてくれるのではないか?と。
まだまだ、肉体的にも精神的にも未熟な自分。
でも…前回、結界を出た時の衝撃は、結界内の伝蔵の精気に甘えていた証拠で、しっかり自分の周囲に気を張ってれば済むことなのだと理解している。
精気のコントロールは、あの時に比べたら雲泥の差だ、と…思いたい。
きっと、出られる。
そうしたら、利吉に頼んで…伝蔵の所に連れて行ってもらおう。
そこまでしたら、伝蔵も…もう一度、半助の方を見てくれるかもしれない。
伝蔵の前で、訓練の成果を披露するより、それは余程、確実のような気がしてきた。
それが出来たら…
ほんの少しでも、半助を見直してくれるかもしれない。
希望的観測ばかりだが、今を逃したら、ここまでの勢いも勇気も失ってしまう気がした。
半助は、靴を履くと、それが随分久しぶりな事を思い出す。
ドアを開けるのは簡単だ。
さっき利吉を招き入れたように、すれば良い。
ただ…自分が出るのは、ちょっと勇気が居る。
「半助さん、何を?」
追いかけてきた利吉。
半助の行動が予想外だったのだろう…目を見開いている。
半助が、結界から出られないのを知っている顔だ。
「山田先生は、悪くないから…私の方から迎えに行きたいんだ」
笑ったつもりだったが、口角が引き攣っただけだったかもしれない。
ドアを開けると、日常の風景がある。
しかし、その前にしっかりと伝蔵の結界があるのが分かる。
前回の記憶を無理矢理引きはがして、ゆっくりと足を踏み出そうとする。
「無理しちゃ駄目です!今日は、父に返ってきてもらいましょう。気分が悪かったんでしょう?本調子じゃないんですよ。」
利吉の言葉に、半助は振り返った。
自分が一歩でも半助に近付いたら、半助がすぐにでも飛び出すのではないかと訝しんでいるのか、利吉は、それ以上動こうとする様子は無かった。
それでいて、心配してくれているのがヒシヒシと伝わって来る。
それが半助には、高い所に迷い込んでしまった動物を助けようとするレスキュー隊員の様に思えて、可笑しくなった。
「ありがとう、利吉くん。大丈夫…きっと、大丈夫」
今度は、普通に笑えたと、半助は思う。
利吉は、半助には不可能だという言葉を使わなかった。
「利吉くんは、こんなに優しいのに…」
自分が怯えたことで、利吉を傷付けてしまった。
利吉と二人きりは怖いので、伝蔵の所へ行きたいのだ、と思っているのかもしれない。
確かに、最初にここまで来たのは、利吉から逃げてきたからかもしれない。
でも、そうではないのだ。
今、ここから出られたら、強くなれる気がする。
「弱くて、情けないけど、山田先生に会う為にも…変わりたい」
「半助さん!」
半助は、くるりと利吉に背を向け、結界の外へと足を踏み出した。
あれ程、恐れていた結界の外。
半助は恐る恐る目を開く。
「平気だ…」
ガチガチに強ばっていた身体の力を抜いて、自らの手のひらを見詰める。
体内の精気は、しっかりといつもと同じく流れている。
前回は、力を全部持って行かれるように、体内にある【精気の泉】がまるで凍り付くように感じた。
しかし、それは単に体内の精気を放出し続けてしまったことが原因だったのだ。
【精気の泉】が凍るように感じたのは、それを阻止する自己防衛だったのかもしれない。
それでも、半助は自らの鼓動が酷く早まっているのを感じた。
「なんで、こんなにドキドキするんだ…?」
何故が、吐き気までしてくる。
大丈夫な筈なのに…。
「ほら!大丈夫だよ、利吉く…」
自らが出てきたドアを振り返って、半助はギョッとする。
部屋の中が…見えない。
結界の中にいる利吉の姿は、半助からは見えなかった。
それだけ、堅固な結界が張られ…守られていたのだ。
結界から出た今の半助。
自分の周りを大気のように包み守ってくれていた伝蔵の結界は…無いのだ。
―伝蔵の不在。
伝蔵の守りも無しに立っている自分。
強烈な違和感があった。
平気なのは、喜ぶべきことな筈のに…半助は、胸が苦しくなった。
「精気は、平気…大丈夫、山田先生の所に…」
時が経つにつれ、半助は、あの暖かい場所から、自分一人閉め出されたような感覚に陥った。
…自分から出た癖に。
もう戻る場所から…伝蔵から、遮断されたような気がした。
ズキン!と胸が痛む。
…半助が一人で平気になった姿を見せたら、もう伝蔵が自分を構ってくれる理由が、無くなるのでは?
一瞬、過ぎった考えを否定しようにも、出来ない自分に絶句する。
ここ数日の半助は、伝蔵に心から笑いかけられた記憶さえ無いのだ。
無償の愛情の上に生きた事のない半助には、愛される自信が欠落していた。
そして、諦めることは日常だった。
でも…
伝蔵だけは、諦められない。
失ったら…それこそ、【月氏】にしてもらった意味が無い。
(私…また、間違った……のか?)
鼓動は、鼓膜を破る程の勢いで…。
半助の意志とは別に、細胞の隅々まで行き渡っていた精気が、薄れていく。
「…嘘」
胸が苦しい。
半助は、無意識に口を押さえた。
人間らしく残っていた食事という習慣は、あの日から失われている。
伝蔵から精気を与えられる事がなくなったのと、日を同じくして、食欲も失っていたのだ。
胃の中に、吐く物は何も無い。
なのに、胸の奥からせり上がってくるような感覚が止まらなくなった。
半助の視界に、結界から出てくる利吉が見えた。
「半助さん!」
利吉が真っ青な顔で近付いて来る。
―伝蔵と一緒に居られなければ、【月氏】になった意味なんて…生きている意味なんて、無いのに。
そう思った瞬間、堪えられなくなった。
ガクンと膝を付いて、項垂れた半助の咽に、迫り上がる熱。
げぇ…と吐き出されたモノを、半助は呆然と見詰めた。
(嘘…だろ?)
視界一杯に広がる…緋色の熱。
鼻をつく…錆び付いた鉄に似た臭い。
それが、次々と溢れて来る。
「ぅ…げぇ…っ」
苦しくて、苦しくて…肺が破れたのかと思った。
咄嗟に口を押さえた指の合間から、鮮血が滴り落ちる。
「…い…いやだっ!」
溢れ出るそれが…何だか、分からない筈はなかった。
【精気の泉】が、逆流する。
…伝蔵からもらった精気が。
相応しくはないかもしれないが、それは…半助のモノなのだ。
噎せ返る程の香気を伴って、伝蔵の精気が、半助の身体から失われていく。
こんなにも簡単に…。
伝蔵がくれた命を、こんな風に粗末にしてしまうなんて…。
やっぱり、弱いままだった。
命まで、生きることまで…依存していた?
それを当たり前と思うようになっていた。
…山田先生が、優しいから。
こんな自分が、重たくないわけない。
でも…
でも、好きだって…言ってくれた。
少なくとも、あの時は。
あの瞬間は、命を掛けるくらい…好きでいてくれた。
それを変えてしまったのは、自分なのだ。
間違ってばかりいるバカな自分。
…それでも願わずにはいられなかった。
「山田先生、私のこと、嫌わないで…」
遠くに利吉の声が聞こえた様な気がしたが、半助は考える事を止めた。
――続く