誤解C
伝蔵は、思い返す。
…いつの間に、自分の中で半助の存在が大きくなっていたのか。
初めて出会った頃の半助は、まだ幼く、自らの置かれた環境の中で、必死に生きていた。
平和が日常化した、生き死にが左右されない世界だったが、そこにも絶望はある。
伝蔵には、半助の瞳に悲しいまでの孤独が見えた。
それは伝蔵自身のものを映し出しているように思え、慌てて否定する。
幼い子供なのだ…そんな事はあり得ない、と。
それでいて、今にも泣き出しそうな瞳が、思いの外…強い光を秘めていることも分かった。
それが、みすみす汚れた男の毒牙に掛かるのは見ていられなかった。
しかし…
(ただ外敵を排除するのでは…本当の意味で、助けることにはならないのではないのか?)
そう思えた。
半助が変わらなければ、同じ事の繰り返しになるのではないか…と。
半助の視野を少しでも広げてやれば、半助の世界は無限に広がるのだ。
…今にして思えば、何故そこまで…半助に関わろうとしたのか不思議だ。
しかし伝蔵は、完全な意味では…間に合わなかったと思う。
一瞬の関わりしか持てない【月氏】である自分。
それが半助の意志や気持ちを曲げてしまう程に、一人の人間と関わって良いものか…そんな迷いがあった。
そして、敵は伝蔵が思っていた以上に巧妙に半助を取り込んでいた。
あと、少しでも助けに入るのか遅れていたら…と、伝蔵は今でもゾッとする。
初めて、明確な殺意を抱いた。
あれは…食事ではなかった。
制裁とも違う。
…我を失ったのだ。
冷静さを欠いていたから、血痕を残すような失態を犯した。
そして、その時点では、知る由もなかったが…守るつもりだった半助の、その後の人生を変えてしまったのだ。
この一件の後、伝蔵は己の未熟さを猛省することとなった。
そして、伝蔵自身に大きな影響を与え、利吉誕生へと繋がっていく。
顧みると…半助ほど、伝蔵に影響を与えた者は、他に存在しない。
そんな半助が、今…伝蔵と共に居るのだ。
改めて、伝蔵は半助を思う。
半助が一人前の【月氏】になれるように、伝蔵に出来る事は全て叶えてやろう…と。
その障害は全て、取り除く。
それが、例え…自らであっても。
人の治療が出来るようになりたい…という願いを、まずは最優先に。
…一人にしないで欲しい。
今でも、半助の声が耳残っていた。
半助が、初めて言ってみせた我が儘かもしれない。
半助らしい、些細な願い。
…愛しいと想った。
半助ほどに…伝蔵の心を揺り動かす存在は居ない。
そのままでいたら、自ら科した誓いを全て破ってしまいそうだった。
その精気の弱りかけた身体を抱き締め、全ては自分の未熟が招いたことなのだと…詫びたくなった。
しかし、その腕を振り解いて来てしまった。
伝蔵は、ギリリと奥歯を噛み締める。
本当に…今日は、外せない予定があったのだ。
…半助に、あんな言葉を言わせてしまった日に限って。
あの約束が無ければ…一緒に居てやることくらいは出来たのに。
「そんな景気の悪い顔しないでいてくれると、ありがたいんだけどな。」
伝蔵は、話し掛けてくる雅之助をジロリと睨む。
「おぉ〜怖い怖い。心配なのは分かるけど、利吉を置いてきたから大丈夫だって」
伝蔵に予定を入れたのは、雅之助だった。
「あんたの持ってくる話しは、鬱陶しいものばかりだからな…嫌でも気が滅入る」
「伝さんが、そんな顔してるのは…それだけのせいじゃないだろ?」
雅之助は、ニヤリと笑って見せた後、不意に真顔になる。
「上の2人の…耳に入れておくのは、悪い話しじゃない。あっちから会いたいっていうんだ。会っておいて損は無い。それがまとめて済むんだ、ラッキーだろ?まぁ…聞かれるだろうけどナ」
「…あぁ。だから、こうして来ている」
伝蔵は、ふぅ〜と息を吐く。
雅之助は、伝蔵が連絡を取り合い、気軽に顔を会わせられる貴重な【月氏】だ。
他の一族との繋がりを一切持とうとしない伝蔵。
しかし、その能力は月氏の中でも際だっており、面会を望む月氏は多い。あわよくば仲間に迎え入れようと思っている者は数知れないのだ。
ただでさえそんな伝蔵が、公にしていないとは言え、【華燭の典】などという希有な儀式まで乗り越えてしまったのだ。
(いずれ、何かしら手出しが始まるとは思っていたが…。)
伝蔵は眉を顰める。
「まさか、二大血統の頭首さまが雁首揃えて登場とは…な」
「それだけ、伝さんの存在を重く見てるって事だろ?」
雅之助の言葉に、伝蔵は苦渋を顕わにする。
そんな伝蔵に、雅之助は苦笑するしかなかった。
そんな伝蔵の唯一の窓口のような立場になっているのが、雅之助だ。
最初の段階で、かなりの数がふるいに掛けられていることを知っているだけに、雅之助の頼みを無下には出来なかった。
しかし…だ。
流石に今日の会合の異様さに、伝蔵は息苦しささえ感じる。
人目…この場合【月氏】の目か…を避ける為に、場所は人間界の一般的な喫茶店にセッティングされた。繁華街を少し外れたそこは、それぞれの座席の三方が壁で囲まれ、個室のようになっていることで、隠れ家的な雰囲気がある。
そこに会合に備え、しっかりとした結界が張られていた。
「おっと…お偉いさんを待たせちまったようだな」
店員に案内される風を装いながらも、雅之助に促されるまま、伝蔵は結界内に足を踏み入れる。
四人掛けのテーブルに、老人が一人。
「伝蔵…久しいな」
「大川様も、お変わりなく…」
伝蔵はゆるりと頭を下げる。
「まぁ、兎に角…座って座って」
片側の奥に伝蔵。それを阻むように手前に雅之助という形で、伝蔵は老人と向かい合う。
一見、ただの老人にみえるその人が、【月氏】の中でも最高位と言われる一族《光家》の長老なのだ。名を大川・光・平次渦正という。
長ったらしい名前の真ん中に、自分の出自を入れるのは【月氏】の風習だった。
【月氏】は血統を頑ななまでに重んじる。
伝蔵はその…血統のカラクリを知り、全ての繋がりから縁を切ったのだ。
その点で言うと、人間さえも商売の対象とする雅之助も、その名に由緒を挟む事は無い。
それが、伝蔵が雅之助と付き合い続けていられる理由の1つかもしれない。
大川の長く伸びた眉毛の下から覗く眼光は、あくまで鋭い。
しかし、伝蔵はそれを平然と受け止めた。
「伝蔵…最近、変わりはないか?」
大川が話し始めようとした所へ、ふわりと花の香りが舞い込む。
「抜け駆けですか?《光家》の長ともあろうお方が…」
凛と通る声の主に、3人の視線は集まる。
「遅れておいて…何を言うか」
大川は、一瞬見とれてしまったのを誤魔化すように悪態をつく。
「それは失礼。大川様」
声の主は、矛先を伝蔵へと変える。
「久しぶりね。伝蔵。元気だった?」
そう、ニッコリと微笑む。
昔から全く変わらない玲瓏とした姿は、伝蔵に恐れさえ抱かせた。
その姿は、伝蔵がまだ幼いころから…ずっと、大川の姿が老人なのと同じように、全くと言って良いほど、変わらないのだ。
「はい。あなたも相変わらず…美しいですね」
伝蔵の口から、そう言わずにいられない程に、美しい女性。
それが、この会合のもう一人の主役、山本・影・シナ。数は多くないが、《光家》と唯一肩を並べる高貴な血族《影家》の頭首だ。
雅之助が、大川の隣に促すと、シナは素直に従う。
二大血統の頭首がこんな風に相見えることなど、そうそう有り得ることではなかった。
それが、自分に会いたいから…という馬鹿げた理由であることに、伝蔵はうんざりした。
「ありがとう…あなたも相変わらずのようね」
シナは、そう言ってクスリと笑う。
この2人を前にすると、伝蔵は自分が子どもになったような錯覚を覚える。
「単刀直入にいうけど…うちの子を知らないかしら?」
シナは、いきなり本題を切り出した。
「うちの…子?」
雅之助はセッティングしておいて、会合の内容は知らされていなかったのか、首を傾げる。
「出て行ったのか?」
「えぇ…一人っきりでね。」
その暗号のような会話を…伝蔵は理解していた。
伝蔵は、シナが『うちの子』と呼ぶ少年を思い出していた。
もう青年に成長した頃だろうに…伝蔵は違和感を覚える。
伝蔵は、その少年の事情を痛いほどに知っていた。
シナが心配する理由も。
「残念ながら、わしは…知らんな。最近の人間界の【月氏】のことなら、こいつの方が詳しい」
伝蔵は、クイッと雅之助を指さす。
シナは、華やかに彩られた口元を抑え、小さい声で呟く。
「…あの子は、あなたを頼りにすると思ったのに」
「あいつは…人の振りが上手かったからな」
簡単に探し出せないだろうことは、伝蔵には想像が付いた。
シナは、クッ…と唇を噛んで押し黙る。
「わしの方も…あやつの調子が良くないのじゃ。」
伝蔵は、ギョッとする。
そんな話題になるとは思ってもいなかったのだ。
「…印が濃くなっておる」
「なんですって?」
過剰に反応したのは、シナだった。
「こちらに…そんな気配はありません。」
「わかっておる。だから…こうして、伝蔵を呼んだのじゃ」
《光家》の長の本題は、これからか…。
伝蔵は、思わず居住まいを正していた。
「印が反応した意味は分かるな。近年…直系の者は、生まれておらん。だが、印に変化が生じた。つまり…は、わしと《影家》の長でも知り得ない所で、直系の者が生じたということだ…とな」
伝蔵は、一気に血の気が下がる思いがした。
「そんな事は、ありません。」
「利吉は、違ったな…」
「な…っ!」
伝蔵は思わず立ち上がっていた。
――お前も…駄目なのか?ここまで手を掛けた、お前も。
――これはお飾りか?所詮歪んだ作り物ヨ!
耳に、過去の亡霊どもの声が蘇る。
もう、あれはとうに終わった事、過ぎた事なのに…こうして見せ付けられる。
自分の与り知らぬ所で、不適合の烙印を押される。
その理不尽さに、身が焼かれるようだった。
理性でどうにもならない程、瞬間的に脳が怒りに支配される。
「いつだ!…何時の間に、調べた!」
怒りに硬化した気が放たれて、結界全体がグラリと傾ぐ。
「答えろ!」
「雅之助の所に出したんじゃ。予想はしなかったのか?」
伝蔵は思わず、雅之助に視線を移した。
「雅之助?」
「ちょっと待て!何のことだ?分かるように話してくれ!」
雅之助には、訳が分からなかった。
伝蔵に向けられた目が、今までと違って感じたから…危機感だけは十分伝わってきた。
「伝蔵の所と違って、あそこには不特定多数の者が出入りするからな…」
「長っ!あんた…」
伝蔵の身体が、怒りにか…ブルブルと震えていた。
「で、伝さん…落ち着けって!」
伝蔵が今にも飛び出しそうで、雅之助は慌てる。
今、こんな状態で出て行かれたら、自分まで伝蔵との縁が切られてしまいそうだ。
見たこともない伝蔵の様子に、雅之助は大川に目を向けた。
「大川さん。うちの利吉に、何したって?!あいつは、俺が伝さんから預かってる大切な子供なんだ。」
「実害は、無かったはずだ。今回の手紙…」
「あぁ、珍しく…【月氏】のガキが使いだった…滝とか言ったっけ」
雅之助の言葉に、伝蔵は苛立たしげに、ドスンと腰を下ろした。
「そういう事か…」
伝蔵は、努めて冷静になろうとしているのか、息を1つ吐いて、話しを続ける。
「…もし、利吉がそうだったら、どうするつもりだった」
「あやつには、見張りを山の様に付けておる」
「…酷いことを」
伝蔵は、眉根を寄せて大川を睨み付け続けたが、大川の信念は揺らぐことなく、伝蔵を見据えていた。
「噂を聞いたぞ、伝蔵」
伝蔵は、ギクリとする。
思ってもみなかった。
…こんな厄介事が、半助に降りかかることになるとは。
自分がどういう存在か…忘れたことはなかったが。
伝蔵は、思わず左肩に触れていた。
「まさか…【華燭の典】の儀式に入っていたとは」
「か…【華燭の典】?!」
黙って話しを聞いていたシナが声を上げる。
知らなかったのだろう…声を抑えられなかったようだ。
「おまえが、こうしていられるという事は…成功したんじゃろ?」
再び、伝蔵の精気がぴりぴりと緊張していく。
「何のことだか…分かりませんね」
「会わせてくれるだけで良い」
「【華燭の典】なんて、知らないって言ってるでしょう」
伝蔵は、雅之助にチラリと視線を移す。
…もう打ち切りだ!
伝蔵の目がそう言っているのが、雅之助にはわかった。
確かに、彼らの狙いが分かって、こうしている理由は無い。
シナの方はまだ良い。
大川の、《光家》の目的は……半助なのだ。
雅之助にしても、冗談ではない。
「今日は、もうお開きにしましょう。お互い頭を冷やした方が良い…」
そう断言すると、立ち上がった。
伝蔵も後に続く。
シナは、意味有りげに大川の方に視線を向け、ぽつりと言う。
「本当に《光家》のやり方って…乱暴で、呆れるわね」
「何を言うか!元々は《影家》が…」
「それまでです!」
大川の反論を制したのは伝蔵だった。
着座したままの2人を置いて、伝蔵は退出しようとした。
その背中に、話し掛ける大川老。
「伝蔵!高位の者には…義務が生じる。それは分かるな」
その言葉に、伝蔵は怖気立った。
…昔から、嫌になるほど聞かされた言葉だった。
そんな全てから、決別した筈だったのだ。
伝蔵は、大川の方に振り返る。
殊更ゆっくりとした動作だった。
「私は…高位の恩恵など、受けた覚えは、ありませんよ」
一言一言を区切るように言い放った。
「……っ!!」
その時だった。
そう離れていない場所から…異様な程の気が溢れたのだ。
伝蔵は、ギョッとする。
「…は、半助?」
誰しもが分かる程に顔色を変え、呆然と呟く。
伝蔵には、それが…半助に与えた精気だという事が、すぐに分かった。
つまりは…
―半助に何かあったということ。
それを理解したと同時に…周囲のことは頭から飛んでいた。
次の瞬間、伝蔵は、その場から消えた。
(…早く、半助の元に!)
その一念だった。
呆然と、伝蔵を見送った3人。
雅之助は、思わぬ展開に天を仰ぎたい気分だった。
分からない事が多すぎた。
それでいて、雅之助は口元が歪んでしまうのが抑えられない。
両頭首の反応など、お構いなしの伝蔵。
冷静を装うことなど…とても出来なかったのだろう。
いつもの山田伝蔵らしからぬ不器用さだ。
取り敢えず、伝蔵が行けば、半助の事は心配ないと思う。
…利吉の事は気に掛かるが、仕方ない。
むしろ問題なのは、こちらだ。
「あれ…」
シナが、そこまで呟いて、口を閉ざす。
勿論、大川にも気付かれただろう。
…今のあれが、伝蔵の精気だということを。
そして、慌てて消えた伝蔵。
混乱した頭では、流石の雅之助にも、上手い言い訳が浮かばなかった。
しかし、雅之助の心配を余所に、2人は何も言わずに帰って行った。
【華燭の典】は、まだまだ謎の多い儀式だ。
それは先程の反応を見ても、長老2人にとっても同じことのように思える。
先程までの会話の内容が内容だ…。
今のが、伝蔵によって行われた【華燭の典】で生まれた、第三者の精気だ…と、結論付けるのは簡単なこと。
伝蔵の否定は意味を成さなくなった。
雅之助が心配していた『固有の力を有した山田伝蔵の存在』…という事以上に、重大な問題が秘められているのだ。
雅之助に何も言うことなく消えた二大血統頭首。
その静けさに、雅之助はらしくなく…震えた。
何か、止まっていた時間が動き始めたような…そんな気がした。
――続く