誤解D
利吉は、その光景に釘付けになっていた。
半助が、伝蔵の結界から出られなくなった…そんな話しを聞いたのは随分前だ。
出られるようになったという話はまだ聞いていない。
そんな半助が、自ら結界の外に出てしまったのだ。
利吉が先んじた半助に続いて外に出た時、結界の外で半助は一見大丈夫に見えた。
顔色は悪かったが、苦しそうに口元を押さえている姿は、先程までと同じ、ただ単に吐き気を堪えているようだったのだ。
「半助さん!」
思わず叫んでいた。
それとほぼ同時に…
半助は力なく膝から落ち、項垂れた瞬間…その口元から、ゴプリと鮮血が飛び散ったのだ。
「ぅ…げぇ…っ」
半助は必死に口を塞ぐが、鮮やかすぎる朱は、半助の指からこぼれ落ち、その腕や床を染めていく。
利吉は、しばしの間、その非現実的な光景に呆然と見入ってしまった。
何が起こったのか、理解出来なかった。
理解したくなかったのかもしれない。
「…い…いやだっ!」
半助の絞り出すような悲鳴に、利吉は我に返る。
「半助さん!」
慌てて駆け寄る利吉を余所に、半助は、何事か呟いて、そのまま倒れてしまった。
次に、利吉を襲ったのは…噎せ返る程の芳香。
半助が吐いた血…精気から、それは香り立っていた。
利吉にも、それがただの精気でないことは、すぐに分かった。
利吉は、確信する。
(父上が、丸抱えして守ろうとした筈だ…)
ただの精気が、こんなに香り立つ筈が無い。
これは、熟成された精気なのだ…と。
精気の熟成が出来るのは、【果実】だけ…。
…つまり、
半助が…【果実】の力を持ったまま【月氏】になったという事だ。
次の瞬間、利吉はゾッとした。
この大量の精気の芳香だけで、半助の…【果実】の存在は華々しく伝播するだろう。
伝蔵が結界から出てきた時以上のインパクトを持って、その存在は【月氏】の興味を誘う。
ただの【果実】だって、珍しいというのに…。
それは、伝蔵が一番避けたかった状況なのではないのか?
「じょ…冗談じゃない!」
利吉の中で、最悪の状況が次々と浮かぶ。
自然と、利吉の取るべき行動は決まっていた。
半助を安全な場所―結界の中へと移動し、あの吐血の後始末をするのだ。
「戻りましょう!まだ…早かったんですよ。あなたは悪くない…」
まず利吉は、意識を失った半助を抱えると、部屋の…結界の中へと、慌てて連れ戻す。
「…っ!」
その身体を抱え上げた利吉は、その軽さに驚いた。
以前、その身体を抱いて移動した時には、これほど痩せては居なかった筈…。
意識を失った半助の顔色は、紙のように真っ白だった。
普通の月氏なら、例え大量の出血をしたとしても、自己治癒力が有る限り、命を落とすような事は滅多にない。
しかし…
半助はどうなのだろうか?
半助は、普通の【月氏】では、ない……。
今更ながら…利吉は、半助の容態が気に掛かりだした。
その精気はとても弱々しく、とても部屋に独り放っておくことは出来なかった。
利吉の中で、急激に沸き上がった感情は…庇護欲か?
すぐにも後始末に行きたかった筈なのに、利吉は半助を寝室へと運ぶことにする。
伝蔵と同じ気を持つ半助ならば、寝室が一番安定した場になる筈だから…。
半助は、まだ【月氏】になりたてなのだ。
あの吐血の濃さと、量では…致命傷にもなりかねない。
本来【月氏】は、命の危機に曝された場合―自己治癒の為、結界に入るのが普通だ。
例え、意識の無い状態でも、それは本能として、遂行される。
しかし、寝室に運んだところで、半助の様子は変わらない。
それどころか、益々容態が悪化していくように見える。
利吉の頭から、血痕の後始末の事など、飛んでしまっていた。
とは言っても、側に居たところで、怪我をしている訳でもない半助を、利吉はどうしてやることも出来なかった。
ただ、少しずつ冷たく冷えていく身体を、少しでも温めようと抱き締めるばかりで…。
「半助さん…半助さん…」
精気の流れを促そうと、身体をさすっても、次第に力を失っていくようだった。
半助の今の状況は、結界に入って然るべき状況な筈。
しかし、半助にそんな様子は見られずに、ただ静かに深い眠りに落ちていくようで、利吉は恐ろしかった。
「しっかりして下さい。半助さん…」
利吉は、自分の無力さに、涙が出そうだった。
その時だ。
表に、強力な結界を張る気配が感じられた。
「父上……父上か!」
利吉は、思わず呟いていた。その力強い存在感に、涙が出そうだった。
しかし…利吉は、まず半助を見に来て欲しいと思ってしまった。
あの惨状を見て、咄嗟の判断なのは分かる。
そうだとしても…
それが半助の為だったとしても…。
(半助さんは、あんなに一途に、父上の事を思っているのに…。)
伝蔵も命を掛ける程の愛情があることは、頭で分かっていても、こんな時に見せる余裕が、利吉を苛立たせる。
それは、すっかり冷たく冷えてしまった半助を心配する余りの感情でもある。
それから、大した時を待たずに、伝蔵が寝室に飛び込んで来た。
「半助!」
「父上!父上っ!…半助さんが!」
伝蔵は、利吉に抱えられるように横たわる半助を見て、絶句した。
「は…半助…?」
朝まで、弱々しくはあったが普通にしていた半助が、利吉の腕の中でぐったりとしていた。
一目で、その様子が異常だと分かる。
伝蔵は、表で見た血の跡に、ただ事ではないとは思い、取り敢えず結界で蓋をしては来たが、ここまでの状況を想像していなかった。
愛しい半助の…
その身体に流れている筈の、精気が…微弱なのだ。
それも、ほんの少し抑えただけで、途切れてしまいそうな程に…。
…何故?
…どうして?
伝蔵の、頭の中で、それだけがグルグルと渦巻いていた。
「父上っ!」
呆然と立ち竦んでいたのは、一瞬だったのか、長い時間だったのか…伝蔵は、利吉の声で、我に返った。
「半助…っ!」
伝蔵は、半助の元に駆け寄ると、利吉からその身体を奪うように抱き締めた。
ひやり…と感じる程の、その全身の冷たさに、伝蔵はギョッとする。
「半助っ!」
伝蔵の言葉にも、ピクリとも反応を示さない半助。
「半助…っ!」
伝蔵は、思わず利吉に視線を向けていた。
何故こんなことになったのか…理由を知っているのは、利吉しか居ないのだ。
「…利吉?」
しかし、伝蔵は愛息の思いも寄らない強い視線に、息を呑んだ。
「父上に……そんな目で見られる覚えはありません」
利吉は、半助を抱いていた腕の形そのままに、拳を握り締める。
「半助さんは、必死でしたよ…父上に、突然突き放されたのも、精気が安定しないのも、全部自分のせいにして…それは、半助さんのせいじゃないのに!どうして、きちんと説明してあげなかったんですか?」
目の前の半助の状態だけでも、伝蔵は酷くショックを受けていた。
しかし、半助を任せていた利吉の言葉は聞かなければならない。
それが、例え伝蔵にとって石の礫のようであっても…。
「父上のために…変わりたいって言ってました。自分が迎えに行きたいって言って、自分から結界の外に出たんですよ。そうしたら…突然、血を……」
利吉は、話しながら、空に遠い目を向ける。
「もっと力づくで止めれば良かった…」
伝蔵にも、利吉がその光景が頭に浮かべていることが分かった。
―吐き出される鮮血
―噎せ返る芳香
―力なく倒れる華奢な身体
それは、命が失われていくかのような光景だった。
「…どうして、半助さんと…私を、2人きりにしたんですか?」
「…利吉?」
「父上…昔の事で、すっかり忘れてましたけど…私、あの人を襲ったことがあるんですよ。半助さんは……私に怯えていた。父上無しで、私なんかと2人きりするから、部屋から出ようなんて思ったのかもしれない…」
伝蔵は、気付く。
自分にだけ向けられていると思っていた礫は、利吉自身にも向けられていた。
「利吉…例え、半助がお前に怯えていたとしても、それは、半助が酷く不安定になっていたからだ。そんな状態にした…私が悪い。」
「分かってて…どうして、こんな……」
利吉は、視線を半助に向ける。
伝蔵の腕の中で、劇的に回復する半助を想像したが、そんな都合の良いことにはならないらしい。
「父上…半助さんは、自己治癒の結界の張り方…ご存じなんですか?」
伝蔵は苦渋を露わに、ゆっくりと首を横に振った。
「そんな大切な事も教えずに……」
利吉は、冷静に利吉からの弾劾を受ける伝蔵に、無性に腹が立ってきた。
「父上は…勝手なんです!」
完璧な、【華燭の典】でさえ乗り越えた月氏である父―山田伝蔵。
しかし、その能力の高さ故に、思い通りにならなかった事など無いように思える。
全て、自分独りで抱え込んで判断する…孤高の人だ。
そこに第三者は立ち入れない。
以前は、それが当たり前だと思っていた。
しかし、それは誰かと共に生活する上では、正しいことではない。
「いつでも、なんでも1人で決めてしまって…あの時だって、詳しい事は何も言わずに……ただ、外で見詰めるしかなかった私の…何も出来ない者の、無力感や苦しみを味わってみると良いんです」
あの時―【華燭の典】の儀式の時だ。
不覚にも利吉は、あの頃の不安と、取り残される恐怖を思い出していた。
拠り所のない孤独感は、伝蔵1人を頼りに生きていた利吉とって、軽いモノではなかった。
利吉は、黙ったまま利吉を見詰める伝蔵の、いつもより小さく見える姿に背を向ける。
半助の事は、伝蔵に任せるしかないのだ。
利吉は、静かに寝室の扉を閉めた。
利吉は再び半助が吐血した現場に戻って来た。
点々と落ちる血痕を覆い隠すように、結界の範囲が、きっちり広げられていた。
咄嗟に、これだけの結界を張る、父の能力はやはり凄い。
「うわっ…」
利吉は、思わず口元を抑えていた。
結界で閉じこめた分、そこは煙るほどに、何とも言えない薫香に満ちていた。
後始末とは言ったものの、その方法を利吉は、ずっと考えていた。
自分の精気ならば、集めることも出来るが、利吉の精気は既に型を違えている。
伝蔵か、半助に回収してもらうのが一番なのだが、2人の様子では、しばらく無理そうだ。
しかし、いつまでも玄関先がこんな状態なのも問題だ。
「…あれ?」
芳香に酔いそうになるのを堪えつつ、近付いてみて、利吉は自らの目を疑った。
「ぅ…嘘だろ?」
そこは、一番の血溜まりになっていた場所だ。
そこにあったのは…手のひら大の、緋色の結晶。
それは、明らかに精気を練って出来る結晶だった。
「そんな…バカな…」
通常、精気を結晶化させるには、大量の精気と時間を要する。
しかも、これほど巨大なものは、雅之助の元でも見たことがなかった。
よく見ると、周りに点々と散っていた血痕も、それぞれが小さな結晶を成していた。
なんとはなしに、利吉は、その小さな結晶を指先で撫でてみた。
大した意図は無かった筈が、個々の小さな結晶は、利吉の指先で一回り大きな結晶にまとまった。
まるで、手品師になったようで利吉は言葉もなかった。
これには…タネも仕掛けもないのだ。
これが…【果実】が熟成させた精気ということなのだろうか?と。
それとも、半助の精気だから…なのだろうか?
利吉は改めて、伝蔵が半助をひた隠しにしようとした意味が、分かったような気がした。
結局、半助の吐き出した血液は、1つの大きな結晶になった。
利吉には、その赤い結晶に宿っている精気を戻してやれれば、半助は回復するのではないかと、単純に思えた。
正直、寝室に戻るのは、勇気が要った。
しかし、半助の精気の結晶があれば、事態は好転しそうな気がしたから…。
利吉は、再び寝室に向かった。
コンコン…と小さいノックの後、許可を得て、ゆるりと足を踏み入れる。
「父上…。」
寝室で…2人。
半助を抱き締め、全身で守るようにする伝蔵の姿があった。
伝蔵は、半助の髪を優しく撫でていた。
半助の様子は、先程と全く変わらないように見えた。
「父上…これ…」
利吉は、伝蔵に精気の結晶を差し出した。
伝蔵は、分かっていたかのように、静かにそれを受け取った。
利吉は、自分の仕事は終わったのだと、理解した。
利吉に出来る事はここまでなのだ。
あとは、伝蔵の…否、伝蔵と半助の世界だ。
(……何故だろう?)
利吉は思う。
孤高の絶対的な存在である筈の伝蔵が、いつも…半助のことに関してだけ、間違う。
呆れるほどに、不器用になってしまうのは、何故なんだろう?
それだけ、伝蔵にとって、あの元人間が特別ということか?
そんな存在に出逢ってしまったら…
自分も、伝蔵のようになってしまうのかもしれない。
利吉は、先程の発言に関して、詫びるつもりは欠片も無かった。
なのに、2人の姿を見てしまったら…思わず頭が下がってしまった。
「利吉……すまんな」
そこに、伝蔵の小さな声が掛かる。
まだ…
まだ何も始まってないのだから
このまま…終わりなんて、こと、ないですよね。
利吉の脳裏に浮かんだのは、「大丈夫…」と微笑む半助の顔だった。
(父上には、あなたが必要なんです…)
――続く