般若心経の解釈について参考となる図書から 
  『 愛 平和 祈り 』     著者 五 井 昌 久      

正しい宗教と誤てる宗教 (P82)

真に空とは、諸法は是れ空の姿にして以下の無し、無しという言葉の通りに、すべての現われに絶対にとらわれない境地になることをいうので、最後には無明(迷)もなく、無明の尽くるところも無く、智も無く、得もなく、と普通肉体人間が、ある とおもうすべてを無し、と捨てきられているのです。統一の最高境地には、肉体観念はもちろん、幽体観念、霊体観念を解脱し得た、宇宙即自我、自我即真理という境地があるのです。
この境地はなんにも無いというのではなく、空空漠々という境地ではありません。自己の中に一切があり、一切の中に自己が在る。すなわち実在そのものという境地なのです。その境地を釈尊は空即是色といっているのです。色即是空で空になって、空になった瞬間に、現象世界の仮相的色(もの)の世界が、すべて光明燦然たる実在、宇宙に充ち満ちる種々異なる使命的光(色)として存在してくるのです。
ですから色即是空という時の色と空即是色という時の色とは、往相と還相の違いであり、仮相の色(もの)と実相の色(もの)との相違なのです。五感六感(肉体幽界)で見えるすべてのものを空と切った時に、このものは実在と業因縁の混合物として現れていたので、一度、一切を空と断ち切る、すなわちこの現象のすべてからの把われを捨てきる、現象という幕を切り捨てると、その瞬間にこの世がそのまま実在の現われ、光明燦然たるすがたとしてあらわれてくるのです。 空とは単なる空無のことではない。その空の奥に、神のみ心がそのまま実在として輝きわたっているのです。

(P89)神仏は直接眼に見えず手にも触れません。しかし人間の内部にあり、外部にあることも事実です。宇宙に充ち満ちていると形容できることも事実です。
すると神仏を把握し、人間の本質を知ろうとするためには、人間内部を深く探ってゆくことが必要であると共に、肉体人間と魂との関係を探求することも必要になるわけです。宗教家で魂が無いなどという人は一人もおらないと思いますが、ただその魂についての見解が浅いか深いかの違いがあると思っているのです。
しかし深い宗教家は肉体は一つの器であって、意識は魂に乗って他の世界に移転してゆくことを知っているのです。肉体が滅びれば、それで一個の人間が消滅したなどと思っているようでは、もはや宗教家として一人前とはいい得ないのです。
人間とは、本体は直霊として、肉体的意識はもちろん、幽界的意識をも超えて、宇宙意識の本源に存在するもので、宇宙神の一つの働き(肉体的にいえば、個性或いは天命)の源なのです。
釈尊はこの本体を直覚させるために、般若心経を説かれたので、すべてを無、無といっているのです。ですから般若心経的にいえば、この肉体界は一つの現われであって、実在でないと同じように、心霊科学的にいう幽界、霊界もやはり一つの現われ、現象世界ということになるのです。
しかしこれは正覚の人や、菩薩級の人たちに実感としてわかるので、普通人は知識としてだけでもよいからこの真理を知って、肉体界における日常生活の中に神の心である愛と真の生き方をしてゆくように研究し、実行してゆくべきであると思うのです。

そうしますと、自己が正しい行いさえしていれば、一度に本体と合体出来ないとしても、肉体消滅後は幽界の高い場所或いは霊界に往生することが出来るのです。もし本体と合体できる般若心経的悟道に入れば、いわゆる涅槃といわれる神界、自由自在の境地に入り得るのです。
この界に入れば、自己の想いのまま、すべてを現出せしめ、消滅せしめ得ることになるのです。
ですから、羯諦 羯諦 波羅羯諦 (ギャアテイ、ギャアテイ、ハラギャアテイ)つまり、明らかにせよ、明らかにせよ、真理を明らかにせよ、さすれば菩提薩婆訶(ボジソワカ)人間の本源の世界、神界に昇れるのだよ、と般若心経の最後に言い添えてあるのです