七 仙 人 物 語        


  序 文 
(P3〜P5)
昔から 無慾恬淡で、五慾煩悩を解脱した人のことを、仙人のような人だと称えたり、また老齢でよく浄められた人のことを、あの人は仙人のような方だと申します。そうした浮世のあかやほこりを洗い落とした人のことを仙人にたとえて評する場合が多いものです。

仙人とは深山幽谷の地で、霞を喰って何千年も生き続けているであろうと想像されてまいりました。 そして多くの人々から幻の存在のように考えられて、その存在や生活ぶりなど、神秘のベールのかなたにあり、よくわかりませんでした。 しかし存外身近な存在であるのです。 その仙人のことを少しでもわかっていただけましたなら幸いと考えまして、背後の神霊に教えられるまま筆をとりました。

一口に仙人と申しましても、いろいろな方やその秘法の呪法や坐法も段階も異なっていて、これらの仙人たちのすべてを伝えることは出来ませんので、その代表的な七人を選びまして、それぞれの修業の経緯や特徴を出来るだけ詳しく発表させて戴きたいと念じて筆を進めて参りました。

仙人の世界は霊界の上位と神界の境にある階層がその世界であります。人は皆、その人の持っている想念の世界に住むといわれています。 それは現世でもまた霊界でもおなじことです。 仙人たちの住む世界も、自分たちの想念で創りだして、自分たちの常住の天地と思い定め、その中に住み修業しているのであります。

現世の人たちが、仙人の持つ無慾恬淡さを見て、五慾を離れ悠々と自適しておられると感じられ、神様や菩薩様のように思われましょうが、今一歩というところで、高き神様の世界に昇ることが出来ず、仙人界の住者として、止まってしまっておられる方が多いようです。 それは仙人たちが永年難行苦行を重ねた末に得た仙術、呪法や坐法を自分から放つことが出来ず、その仙術に把れているからです。 把れている間は、その階層に止まってしまうものです。

人はその得た学問知識も、修業で得た経験も、神仏に一度お返しして、改めて頂き直す日々を続けてゆく中に、自然と解脱への道が開かれてゆくもので、把れを放つことの如何に大切かを教えられます。 仙人のような人でも、自分が経て来た修業の呪文や坐行が忘れられず、何百何千年もその場に止まっているのを教えられる時、その秘法や修業がどのようにあっても、大神様の眼からご覧になれば、進化してゆく過程の一瞬にすぎないものと思います。
 
 一般の人たちには仙人のような、難行苦行を経てゆく道は実行不可能とよくご存じの五井先生は、消えてゆく姿で世界平和の祈りを教えてくださり、五感で感受するすべての現われは、真実の世界が現れるまでの一過程で、いつかは消え去ってゆくものと とらわれを放ち、神仏のみ心である世界平和の祈りを祈り続けてゆくと、個人も人類も必ず救いの道に入ると教えてくださっています。 私たちは日常の生活の中で、たゆみなきお祈りを続けて参りたいと思います。

  はじめに (P9〜P10)

私はいつも申します、人はみな現世で こうして肉体身をもって生活しておりますけれども、生命の本源地に根拠を持っていない者は誰もいないのです。 しかし、その根拠たる家を出て、人生行路の生まれかわり死にかわりを、繰り返しているうちに、わが家のことをすっかり忘れ去り、放浪の孤児となって、目前の苦楽の波の中にいつまでも浮沈を繰り返してきたのであります。 

しかし、永遠に救われない状態として輪廻の世界を転生してゆくのではなく、必ず、一歩一歩、前進し昇華してゆくのでございましょう。神様の眼には昇華向上しない人類など、あり得ないと思います。
それは修業として現われてくるいろいろな現象を通し、体験が深められ高められてゆくその道筋の中の、人それぞれが持っている固有の道とでも申しましょうか、その道の中での向上であり、修練でありましょう。 天命とはこうした道の姿を、高所より見定めたもので、地上生活から昇ってはるかなる天上界にと連なり、素晴らしい光輝を放しつつ、大元と一つに融け合って、計り知れない働きをなしつづけてゆくのが天命の真の在り方でありましょう。

こうして示された天命の中で、それはそれは数えきれないほどの段階を経て、いろいろな経験を通し、昇華から昇華を繰り返してゆくなかで、天上界に最も近い階層の世界に、仙人たちの住む世界があります。ある時私はその階層に霊 的に連れてゆかれ、いろいろな仙人と出会いました。その仙人たちのお話を申し上げたいと思います。


上記の文章は、村田正雄著 「七仙人物語」序文はじめにです (白光出版刊)
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