言葉と言(ことば)の違いについて     


太初(はじめ)に言(ことば)があった、
言(ことば)は神とともにあった、
言(ことば)は神であった
 

この教えは、ヨハネの福音書 一章一節です。
宇宙大神の深い創造の働きを伝えるとても深遠な意味を持つものです。
ということを踏まえながら、私たちが当たり前のように使っている
言葉”と“”の違いについて考えてみました。
遠い昔、太古の人達(神人)は、会話や意思の疎通を、すべて波動という心のひびき(テレパシー能力)で行っていたと想定できます。なぜなら、幽体的想念層のクリーン化が叶っていれば、テレパシー能力が高いと考えられるからです。
私たちのように、潜在意識という隠蔽したい想念を隠す波動壁が必要がない分、すべてがオープンであれば、間違った思考や常識が生まれません。
霊性を主とする精妙な世界は、光と光が交流するように、伝えたい事は瞬時に伝わり、伝え漏らしも受け漏らしもなく、そのために、疑心暗鬼が生じることもないからです。
言葉という伝達手段以上の内容が瞬時に伝わるのは、“言”が波動であり、内容を含んだひびきであるからといえます。
常に調和して進むという質の高い創造原理が働く世界では“”が正しく働いている....とすると、霊的な次元の働きを否定する考察からは、より飛躍した創造性は生まれないという結論がみえてきます。

太初(はじめ)に言(ことば)があった、
言(ことば)は神とともにあった、
言(ことば)は神であった
上記のような高次元波動が支配した時代が過ぎ去り、人間世界が肉体中心という新たな段階に入るほどに、人間の本質が霊性にあることが忘れ去られ、テレパシー能力に代わる、意思疎通手段の必要性が生じた事になります。
その必要性の中から言語がうまれ、地域ごとに文化や価値観が創られていったと考える時、人類の長い変遷の中で、言葉は人間社会の進化のために大きな働きを担ってきた事が分かります。

人間の歴史は、私たちがまだまだ知り得ない変化を繰り返してきたのかもしれません。
声帯の働きや発音の仕組みだけ考えても、神様の創造という叡智なしには考えられない機能であり、言葉の行使も、私たちが考える以上に、有り難い能力ということが言えます。
でも今日、私たちは、当たり前のように言葉を使い言葉に親しむあまり、想念と言葉が一体化して働くことを意識しません。更には今日のように電波波動を受信する機能や文化が進歩すると、意思疎通手段も少しずつ変化してくることになります。

いずれにしても、言語を使っての意思疎通手段は完全ではなく誤解を生みやすい要素を含んでいることは確かです。
ところで、言(ことば)と言葉の比較でわかることは、言葉は、文字化することができて、その文字数が多いほど理解には時間がかかります。
その点、言(ことば)は文字化できないけれども、伝達時間はその内容の多少にかかわらず、瞬時で可能ではないかと思います。そうした根本的な違いからは、“”はチャクラの働きと関係があるのではないかと思ったりします。

高度に進化した世界では、テレパシーに加えて、離れた場所からの伝達には、機器を用いて、発光ボタンの色の変化で、内容を伝えることが可能であるようです。(村田正雄死著書参照)
一方私たちが用いる言葉は、想念という波動を乗せて伝わりますが、想念と言葉を変えて嘘の内容を伝えることもできます。その場合受け手側は、言葉の、間違いや嘘を見抜けないという事が生じます。
ということは、言葉の誕生は、大変大きな恩恵を人間世界にもたらしながらも、同時に個人としても社会全体としても、善悪混交の常態化から抜けられない要因となっていることになります。

言葉を使用し始めるという進化と潜在意識の発生とは無関係ではないことになります。
一つの始まりは新たな問題の発生の通過点となるという繰りかえしは、はるか遠い時代から幾度も起こり、今現在に至っているのかもしれません。
そんな考察のなかに、人類はいつの頃からか霊性を失い、見えない想念の蓄積という潜在意識の影響から抜け出られなくなった、という事があるようです。
それでも、今日では言葉は大切なコミニュケーション手段であり、言葉の働きなしには、社会も生活も成り立ちません。

コミニュケーション能力の差異は、性格とも関係があり、人を責める材料ではありません。でも言葉を丁寧に良い響きで使える事は、一つの能力であり、社会で信頼を得る事につながり、、運気とも関係するのだと思います。でもそうした能力に欠けるとしても、光明波動の言葉や祈りで潜在意識層を浄化することが可能であるといわれています。
ありがとうの言葉は、心がこもらなくても、ありがとうです。
ありがとうと言われて不愉快になる人はいません。
そして声に出しても出さなくても感謝は出来ます。

感謝は光の働きを、果物を食べる行為に例えて考えてみました。
おいしい果物を食べるとき、その果物に感謝して食べることによって、果物も報われ、つくった人たちの努力も報われます。更には食べる人の体内への栄養吸収も高まることでしょう。
更には、感謝の想いはその果物を通して、その果実を育てた樹木や大地、太陽の働きも及ぶかもしれません。単なる果実一つであっても、宇宙レベルの叡智の働きが秘められているかもしれない...、そうしたことを考えるだけで、自分自身の意識の世界が広がります。
それを可能にするのも言葉があればこそです。

      
        言葉さんありがとうございます