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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成24年12月

師走を迎えて思うこと

 

人間の生活習慣なんてもんはですたい。何千年も昔から、根本的には何も変わっとらんと思いませんか。朝起きて、くそたれて、昼働いて、日が暮れたら家に帰って、お酒でもかっ食らって、後は寝るだけ。文明の進歩かなんか知りまっせんが、よくよく考えてみたらくさ、ただ単に使う道具が変わってきだけのように思えるんですよね。

若い人たちは、昔からその時代その時代においてお年寄り方に、「その考え方は、もう古い。今では通用しない」と豪語してきとりますよね、誰しもが、順送りに。しかしですばい。通用せんと言わっしゃりますが、中国では一万年前、日本でも六千年前の人が作り出してくれたお米や野菜を、今でも食べさせてもらってるじゃん。これってどうなの。


 温故知新(古きを温ねて、新しきを知る)の意味合いを老若共に、ないがしろにしてはいけないような気がしますな。歴史はそれ自体が、繰り返されてきとりますからね。

そうするとですたい。人の悩みなんかも、そんなに時代の大差はないんじゃないのかな。克服方法もね。イソップ物語の「ありときりぎりす」ですばい。夏遊べば、冬は辛い思いをする。一生懸命悩みに立ち向かった人にしか貰えない境地は、変わらんと思いますな。

わがお寺は、御本尊がお不動さんだからですかな、案外にご祈願事を頼みに来る人が多いんですよね。しかし本来、わが宗のお上人さんの主なる教えは、「ご先祖代々菩提が醍醐」ですからね。「その根枯らして、枝葉の栄えはなし」が本分の菩提寺なんです。

相談に来られる人の半分は、信仰の「はしご」をされてきた人たちです。人間は、悩みを持っていない人なんかは誰もいまっせん。片付けやすい問題は、それこそサッサと片付けていきますが、片付けにくい問題は目を背けるため、いつまでたっても残っとります。しかし、それがあんまりにも負担になってきたら、自分が動かんでも片付けてくれる神さん、仏さん、どっかにおらんかいなと、「はしご」ですばい。・・・おりまっかいな。5歳の子供に飴玉やって育てるように、30歳になってもまだ、飴玉与えて育てる人間の親のような神さん、仏さんが、ね。今日やっておかなきゃならん仕事を、やりたくないもんだから、

「お不動さん、どうか、お賽銭をはずみますから、明日朝までに片付けておくんなまし」・・・いやはや、なんて言ったらいいんですかな。私たち坊主は、その人が目を背けている問題に、目を向けさせるように指導することが役目。それだけなんですがね。

先日もですね。両方の両親から結婚を反対されているという若い二人が訪ねて来まして、「私たち結婚してもいいですか。しないほうがいいですか」と、こうですばい。

「おたくさん方、ちょっと尋ねますがな。私がこの結婚はしない方がいいよと、もし言ったらくさ、あなたたちは本当に諦めるんですかいな。・・どうなの」

「・・・」

「二人揃ってここに来たということは、結婚したいから来たんじゃろ。責任を他に転嫁するようなことはしなんな。相性がいいといって結婚して、すぐに別れたもんはなんぼでもおるばい。相性が悪いからやめろと周りから反対されても貫いて、最期まで添い遂げたもんもなんぼでもおらっしゃる。・・・尋ねる内容を変えなはれ」

 

だいたいですな。娘を嫁に下さいと来た相手に対して、「持ってけ」と二言返事で了解する親がおりまっかいな。どんなに親の眼鏡にかなった男性でも一度は断りまっせ。「この親は、厳しい。大事にせんとしばかれる」と相手に思わせることで、嫁いだ先の娘を守ることが出来ますからな。それ以外に娘を守ってやる手段は、親にはないんですばい。着いていけないんだから。今、国家間問題で話題になってる「抑止力」ちゅうやつですよ。

そうそう、そう言えば先日ですね。人の欲をおちょくった面白いお坊さんの法話を耳にしましたよ。その方はインド人の住職さんで、随分出て来らっしゃるのに時間をかけておりましたからな。何か仕掛けてくるなとは、予想はしておりましたが。

「長いこと待たせましたな。待ってる間、しっかり願いをかけて、一生懸命お参りをされておりましたかな。・・・何てな。こんなに時間があったのに皆さん方は、ただボーと待ってたんですかいな。お参りもせんで、出てくるのが遅いと文句たらたら言って、10円、100円のお賽銭をほたり投げて、ね。困ったもんだ。そんなんで願いが山ほど叶うお寺がどっかにあるんなら、教えてくれ。わしが行く」これは、久々にヒット法話でしたね。

仏はんも「よう言うてくれた」とストレスも落ちたじゃろうね。

さてさて、今月は12月。早いもんで今年も、あと数日で終わりです。考えたら人生なんて、あっという間ですね。私も年を越えたら満51歳です。あと21回正月を迎えたら、父親が他界した年齢ですばい。いたずらに無駄な時間を過ごす暇なんぞありまっせんわな。

 さて、去年の今頃だったと思いますが、高校3年だった末の息子との間で、こんな会話があったんですよ。

「父さん、今日は成道(釈尊悟りの日)の日だよね。・・もうひとつ、あるよね」

「・・・真珠湾か(12月8日)」

「山本五十六さんは、敵国から命を狙われるのはわかるけど、日本の中においてもその身はあぶなかったんでしょ。どうしてそうなったの」

「五十六さんについては、いろんな評価があるからな。その時代にいたわけじゃないから、その是非を決めつけるわけにはいかんがな。出る杭は打たれるし、空気を動かすもんは嫌われるもんな。しかし、誰かが動かんことには物事は前には進まんだろ。・・ところでさ、授業が終わったら放課後に掃除があるんだろう。その時、何人真剣に掃除しとるや」

「・・・そうだね。・・・数人かな」

「そうだろうな。その数人が動いてくれてるから綺麗になってんだろ。先生も目は節穴じゃないから、その子らを褒めるわな。褒められてるその子らを見て、掃除してないもんがやっかんで文句を言いよろ。世の中は動かんもんに限って文句を言うもんだよ。18歳にもなって、誰かがするだろうと怠けとる人間は、心を切り替えない限り、30歳、40歳になっても、誰かがするだろうの人生を歩んどりゃせんかな。五十六さんにしても、大阪の橋下さんにしても、リスクを背負ってまでも動いている人は、成功、不成功に係わらず、人生の最期を迎えた時、それなりに納得してこの世を終われるんじゃないのかな」

 さあ、来年こそはこの時期、「充実した1年だった」と言えるようにしておきたいもんですね。なんか、毎年同じことを言っとるようですが。

    それでは、よいお年を