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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成25年1月

1年の計は元旦に懺悔(さんげ)、かな

 

 明けましておめでとうございます。昨年は私事ながら、様々な方々からこの上なきお力添えを賜り、本当に有意義な1年でございました。中でも一番嬉しかったことは、私の本やこのホームページの法話を見られて、数名ではありますが、自殺を思い止まったというご連絡をいただいたことです。金剛寺所縁の檀家さん以外の方にも、ネット(本)という手段を用いれば微力ながらでも、どなたかのお役に立つことが出来るんだと、超アナログ人間で、直接対応だけが布教と決めつけていた私にとっては、本当に眼から鱗のご縁でした。

 さてですたい。今年一発目は、毎月1日にお伺いをしております会社の、一人の重役さんから聞きましたお話についてご紹介をさせていただきましょうかね。

このお方のお話によりますと、以前におらっしゃった会社では、「1年の計は元旦にあり」ということから、従業員一人一人全員に1年間の目標を立てさせるため、一人につき100個、今年気をつけようと思っていることを書かせていたそうなんですわ。

「それは名案ですね。そんな支持が出されたら、人は書き上げれば書き上げるほど、知らず知らずに自身の懺悔文に仕上がっていきますもんね」

「そうなんですよ。それもですね。面白いことに、表現の表し方は違うんですが、100の内10個ほどが、同じ意味合いのものが出てくるんですよ」

「なるほど。それがその人にとって、今年一番の目標にせにゃならんものか。なんとまあ、素晴らしい方法を考え出しましたね」

 これにはほとほと感心しましたな。「使える。真似しよ」と思いませんでしたか。法話という形式もこれによく似ておるんですな。不特定多数に話しかけるでしょ。だから個人的な指摘になってないので、案外素直に自分に当てはめて受け入れてくれるんですよね。

人に注意をされて腹が立った時は、まあ大抵は身に覚えがあるからなんですな。人に言われて「ムカッ」ときたら、まずは我が身を冷静に振り返ってみることですね。

また、この方のいわれる方法はですたい。管理職の方々にとっても、その人が出した100個の注意点から個人的指導材料としての参考にも使えますしね。人間は経験と体験の中からしか、智慧も知識もつかないし、問題点も頭に浮かび上がってきませんもんな。

最近はお寺の方でも、社会人になって「うつ病」になったと、心のケアを求めて来られる方がかなり増えてきたんですよ。過去の法話でも言いましたが、子供は育てただけしか育っていません。「これをしなさい、あれをしなさい」と与えられて育ってきた子供たちです。親は子供に自分で問題定義をさせ、解決に取り組む生活をさせてきてないからね。そりゃ、社会に出たら親は助けてやれんから、当然てんぱります。もちろん、そんな親ばっかりじゃないですよ。そんな親ばっかりだったら、この国はもっと駄目になってますばい。

「うつ病」にしてもですたい。心の許容範囲は人それぞれ。人によって背負える荷物の数はだいたい決まってますな。それを越えたらアウトですばい。「この問題は、今すぐやらんでもいいよ」と、たったの1つ問題を取り除いてやるだけで「うつ病」は案外に避けられるもんですよ。逃げ道を与えてやるということも時には必要なんですな。

管理職は従業員の心の管理までして、初めて管理職ですもんな。しかし、「納得できんな。そんなことまでかい」と不平に思われる上司の方も、あまたにおらっしゃるでしょうね。

かく言う私もそう思います。「九九を知らんで、三角関数は解けんじゃろ。自主トレもせんで、キャンプにやって来たんかい」って話ですもんね。何の世界でも一応の基礎は必要ですから。基礎なくしてのぞめば、必ず人に迷惑をかけることになります。携わる人の資質にかかわらず、物事は動いていきますからね。無常にも。

だけんどもですたい。残念ながら、どうもそんな時代になったみたいですよ。「私の子供、いつになったら箸の使い方が上手になるんですか」と、小学校の先生に文句を言ってくる親がいるそうですからね。いやはや、困ったもんです。大人になりきってない親が、子供を育てていますからね。その親に育てられた子供が、近い将来親になっていくんだもんな。何か、末恐ろしいですな。どっかで止めないと、この流れ。政治にも多少責任があるかな。  

今の若者は気力がないとか、やる気がないとか、散々に言われちょりますが、本当にそうでしょうかね。歴史から見ても日本人のDNAは、そんなもんじゃありまっせんばい。

この話は狭義話ではありますが、ある若者たちとの会合で、「お釈迦さんの存在を知っておりますか」と尋ねたところ、数百人の内、なんと数人だったんですよね。初めはいささか驚きましたが、しかしその理由を尋ねてみると、なるほどごもっともですばい。

「ちょっと言い訳をさせてください。私たちは親が菩提寺(我が家の先祖を弔ってくれているお寺)に参拝するところを見たことがありません。親がお墓参りに行くところを見たことがありません。元来、親が手を合わせる姿を見たことがないんです。家に仏壇もないし。その環境の中で私たちは育てられたんです。知り得るはずがないじゃないですか」

 昨年11月の法話でも言いましたが、いい加減な親からは、いい加減な子供が育ちやすいもんです。どうしても水は、高い所から低い所に流れていきますからな。中にはそんな親を反面教師としてちゃんと育つ子供もおるにはおりますが。まあ何にせよ、こういう信仰の問題に限らずですばい。ちゃんとした環境も与えずに、今の若者はどうだの、こうだのというのは、ちょっと違うような気がします。例えば、年老いた親を世話する姿を子供に見せておかないで、将来親を世話する子供が育つと思いますか。順送りですな。

 人の心の広さは無限です。なのに「こだわり、偏り」という厄介もんが、いらぬ壁を作って道を狭めていくんですばい。有識者(親)が、ほんのちょっと扉を叩いてあげるだけで、若者は何ぼでも道を広げていきますばい。数十年前のCMで、「臭いにおいは、もとから断たなきゃ駄目」というコピーがあったでしょ。あれですよ。まずは私たち親(大人)が、心を入れ替えなきゃね。それからですばい。若者(わが子)批判をするのは。

 人は、「目、耳、鼻、口、心、体」が基軸となって動いております。これを仏教では「六根(ろっこん)」と呼んどりますが、これにはそれぞれ「好き、嫌い、どちらでもない」がくっついていて、さらにそれぞれに「綺麗、汚い」などの相反するものがくっつき、「現在、過去、未来」を支配しとります。さて、これを掛けあわせると、「6×3×2×3=108」となりますが、これが所謂「煩悩」といわれるものです。年末、年始にかけての除夜の鐘は、「好きじゃ、嫌いじゃのこだわりを落として、今年こそはこの六根を清浄にして歩んで行きなはれや」と打ち鳴らしておるんですな。さあ、「門松は冥土の旅の一里塚(一休談)」です。命には限りがありますばい。まずはこの一年、後悔せぬ歩みを。ですな。