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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成25年10月

人類が踏み込んでもいい領域とは

 

 今月の法話に入る前に、先月9月の法話でわが爺様を「どら息子」呼ばわりで終わらせてますんで、ちょっと補足ばさせてちょうだい。確かに3拍子の内、山本は代々お酒が飲めないので、それ以外でしこたま婆様を泣かせてきた爺様ですが、だからといって婆様を大事にしていなかったわけではないんです。例えば買い物などに行った時、婆様に荷物を持たせている姿など見たことがありません。私も爺様に同様です。「天から貰った最高のプレゼントはわが女房殿」ですからね。よく街中で、奥さんが両手にいっぱい荷物を持っているのに、主人の威厳をはき違えて、手ぶらで偉そうに歩いている姿を見ることがあるでしょ。


亭主関白を装っているつもりが、側から見たら褒められた姿ではないですな。「力のない人間に限って、偉そうな態度をとるもんだ」、が爺様の口癖でしたね。満州時代(大戦中)は土建屋の親方として相当激しい爺様(大連中学時代の父談)だったようですが、生涯において、婆様に手を挙げたことなんて一度もなかったと聞いております。さてと、これだけ書けばあの世の爺様も許してくれはりまっしゃろ。それでは、今月の法話に入りましょうかね。

昨年の8月29日、染色体を調べることで99%の確率でダウン症がわかるということを主要新聞社が一斉に報道して、大変な物議となりましたな。覚えてまっしゃろ。

ご存じの通り、ダウン症は21番染色体が1本余分に存在することで発症するといわれているものですが、その始まりは、1866年イギリスの眼科医ダウン医師が発表したことからだそうですな。生まれてくる確率は、母親の出産年齢に関係するといわれておりますよね。若いほど低く、年を取るに従ってリスクが上がると。あくまでも確率らしいですが。

私は檀家の娘さんたちに煩さがられながらも、顔を合わす度にけしかけております。なるべく若いうちに結婚しなさいとね。この症候群を心配するというよりも、年を取って力の衰えた母体よりも、若い、力のある母体の方が、自然に考えても体の元気な子供が生まれてくると思いますからな。結局子供は、母親の血、肉、骨を貰って生まれてくるわけだからね。

 一般的に勘違いされているようですが、ダウン症は知能的には少々遅れているとはいえ、普通の人と同じことが出来ない人ばかりではないんですよね。時間がかかったとしても、普通の人か、それ以上の業績を上げている人もおられるということですばい。もう世間的には有名だから実名を出させてもらいますが、昨年の大河ドラマ「平清盛」の題字を書かれた女性は金澤翔子さんといって、1985年生まれの28歳。ダウン症の天才書家として今現在もご活躍をされておられますよね。しかし、重度の子がいることもまた、事実ですが。

私は何が嫌いといって、一番嫌いな言葉は、「私には、出来ません。無理です」という言葉を聞くことです。特殊な技術、知識を用いなければ出来ないことを除いて、人が出来ていることを自分が出来ないということは決してありまっせん。ただ、そこには上手、下手があるだけです。いずれ、それも時間が解決します。努力をすればですがね。五体満足で生まれさせてもらっておきながら、やりもせんうちから「私には無理」は、あかんですよな。

 このダウン症の物議が起こった時、息子から「父さんの見解は」、と聞かれました。当然賛成側にも反対側にもそれなりの主張はありますよね。難しい問題ですからな、意見が分かれて当然です。ただ、これから生まれてくる赤ちゃんにおいては、世間の賛否に係わらず、その出生の決定は母親の決断如何ですが、気の毒なのは今現在、その荷を背負って生きている子供たちですばい。聞くところによると、この報道が流れた後、「ぼくたちは、生まれてきたらいけなかったの」という言葉があがったとのこと。・・・たまらんですな。

医学に限らず、事が発展する時には必ずリスクが伴います。江戸時代、1774年刊行の「解体新書」も、罪人の遺体を参考にしてドイツ医師ヨハンの医学書を杉田玄白、前野良沢が翻訳したことで有名ですが、その時も非難ごうごうを受けながら、夜中にランプを用いて調べたとのことでっしゃろ。しかし、その御苦労があったればこその今の医学界だよね。

昨年、ノーベル賞を受賞された医学博士、山中伸弥先生のiPS細胞(再生医療)にしても、医学的には絶対に必要なものとは思いますが、地球上に人間が溢れかえり、そのために多種多様の問題が山積みとなっている中、本当に人類のために生かされる方向に向かえばいいのだがと、そう願わずにはおられませんね。同じノーベル賞受賞者の相対性理論で有名なアインシュタイン(原子爆弾の生みの親)はんは、第二義世界大戦終戦後、「われわれアメリカは戦いには勝利したが、平和まで勝ちとった訳ではない」と、晩年核爆弾廃絶を訴え続けたそうですもんな。どんなによか道具でも、使う人間によっては凶器になりますからな。

時折りお寺で、「幽霊は怖いよね」と、ほのぼのとした話題で盛り上がることがありますが、話の終わりには決まって、「まあしかし、一番怖いのは、やっぱり人間だよね」に落ち着きますばい。ノーベルの話題の〆が、軽い話(幽霊)となってすんまっせんな。

たまにですが、この地球上で人間が生存を許されている領域って、どこまでなんだろうって考えることがあるんですよ。深海魚なんて水深数千メートルの海底におるんでしょ。人間なら一発で「グシャ」ですばい。なんで水圧で潰れないんだろう。そうしてみると、海の底は体が潰れない水深までが、人間が生きることを許されている領域、かな。なら、空はどうでしょうね。道具を使わずに呼吸が出来るまでが領域、かな。だとしたらですばい。足を使って歩いて行ける最高峰、8988メートルのエベレスト山が限度ということですかな。何にせよです。どの分野においても、人が手を出してはいけない領域というものがあるように思えますな。その領域に無理やり踏み込んだら、何かが狂いだすような気がします。しかし、どうしても踏み込まないけんなら、その領域に生きる命に、迷惑をかけちゃ駄目だよね。

寿命についても、私はよく取り上げさせてもらってますが、昨年の山梨のトンネル事故においても、十数年前に起こった広島の高速道橋げた落下で、たまたま下を通り合わせた十数台の車が下敷きになった事故においても、家を出るのをほんの30秒、早めておるか,遅めておるか、信号一つ引っかかるかどうかで、恐らく結果は違っていたでしょう。通り抜けられた車、寸前で免れた車、潰された車、この違いはいったい何なんでしょうね。

東北大震災においても、震災日の朝、誰がその日の午後、津波に巻き込まれて命を落とすなんて予想したでしょう。「寿命」という一言で片づけるには余りにも惨すぎますが、しかし、まさに一寸先は闇、人類は大自然の中では本当に無力、この命は許されて生かされてるんですな。というより、地球は人間だけのものと高飛車に構え、圧倒的に多い他の生命体の存在を無視して、やりたか放題やってきたそのつけが今、大自然のしっぺ返しいう形となって、人に襲いかかってきておるように思えてならないんですがね。今一度人間は、「分相応に生きる」という意味を、それぞれの立場で考えなおす必要があるかもしれませんね。