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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成26年3月

本当の愛情とは、何じゃろかいな、パートU

 

先月に引き続きまして、もうちょっとだけ、「本当の愛情」というものについて考えてみましょうかね。今月は先祖を敬う春のお彼岸月ということで、亡き父の話を一発。

さて、先代(父親)の晩年時ですが、お彼岸参りなどで各々の家に伺うと、とにかく甘いものが大好きだった父に、「牡丹餅(ぼたもち)やお萩(おはぎ)」をくさ、家ごとに出してくれるんですが、・・実際は有難いんですよ。しかし、父自身が自分で自粛すれば問題はないんだけど、出して下さる方に悪いと思っているのか、ただ単に食の欲にかられるのか、1日に20家行けば、20個全て食べるんですよね、これが。・・すごおまっしゃろ。


その自粛なき食欲でもってくさ、度々体調を壊すんでね。そこで私は非常に申し上げにくかったんですが、檀家さん方全家に戒厳令を出したんですわ。「父に甘いものを出さないで下さい。お茶だけで結構ですから」と。ところがですたい。「1個ぐらいなら、いいじゃないですか。折角ご住職に食べていただこうと思って作ったんですから」と、全く聞きいれてくれないので、「そうですか。1家においてはわずか1個ですが、20家伺えば20個ですばい。住職を病気にしたいんなら、どうぞ我が意を貫いたらどうですか。本当の愛情って、いったい何なんでしょうかね」と、言い捨てました。当然の結果ですが、当時はめっちゃ嫌われてましたよ。「あの副住職は、何さまのつもりじゃ」とね。当時、檀家さん方には心配をさせまいと思って隠してたんですが、父は甘いものを食べ過ぎると胆管が詰まって、心臓が不整脈を起こしてたんですよね。それが結構酷かったんですよ、寝込むほどにですな。

ちなみにですが、お彼岸の時にお供えする、「牡丹餅(ぼたもち)とお萩(おはぎ)」の違いについて少しお話をしておきましょう。基本的には同じもんです。ただ、使われている漢字を見てもらったらわかるように、牡丹の時節、つまり春のお彼岸にお供えするのが牡丹餅で、萩の時節、秋の彼岸にお供えするのがお萩ということですな。「同じもんなら、名前なんて統一すりゃいいじゃん」って声が聞こえてきそうですが、日本には折角四季があるんだから、まあそう言わんと、趣を味わってみるのも変化が感じられていいもんですばい。

話を戻しますが、自分で暴露しとってこんなことを言うのもなんですが、別に父(先代)は欲深い人間だったわけじゃありませんよ。ただ、甘いものに目がなかっただけです。病気は口から入りますからね。口養生の出来んもんは、必ず何かしらの体調不良を起こします。本人が出来んのなら、周りが気をつけてあげないとですな。私の女房殿なんかは、父に対して厳しかったですばい。「お父さん。また、棚探ししてるんですか。いい加減にしないと自分が辛い思いをするだけですよ」と、よく怒られておりましたな。わが子に女の子がいなかったからですかね、女房殿の言うことは100パーセント素直に聞いておりました。元来、幼少の頃より厳しい父の印象しかありませんでしたからね。女房殿とのこのやりとりは、滑稽(こっけい)にしか見えませんでしたばい。人は変わりゃ、変わるもんだな、ってね。

さて、その女房殿ですが。今年私たちは、銀婚式を越えて1年目。あと24年で金婚式を迎えますが、願わくば、二人揃って元気に迎えさせてもらいたいと切望しております。ちなみにですが、方々のお寺さんに行ったら、よく夫婦の狸の置物が置かれてあるのを目にすることがありませんか。狸ってですな、なんと一夫一婦制でね、非常に仲良しなんだそうですばい。例えば、日本で一番車に引かれる動物は狸なんだそうですが、その亡きがらがそこにある間、2カ月も、3カ月も連れ添いの狸はそこから離れないということです。その夫婦仲を見習うようにと、お寺の境内におかれておるんですな。狸の夫婦に後れを取るな、とね。

思えば、私が25歳、女房殿が21歳の時に結婚をしたんですが、女房殿には考える暇を与えずに話を進めました。女性も年齢を重ねてまいりますと、既婚者(友人)の話しなどから、いらん智慧がついてきますからね。挙句の果てに、何が悲しゅうして、主人になる人の両親に気を使って生活せにゃならんの、とか。いやいや、母親はそれをやって、あなたを育ててきたんですがね。他にもですたい。何で、子供に私の貴重な時間を取られにゃならんの、とか。ほう、自分は散々親に時間を取らせて、育ててきてもらったのにですかい。育ててもらった恩は、育てて返すしかないのにね。何万年も昔からの順送りごとですばい。

女房殿は当時若かったからね、何とかまるめ込めましたが、大変だったのは義理の父母です。しかし、親の気持ちもわかるんですよな。お寺で生まれ育った娘さんでさえ、他のお寺に嫁いで精神的にやられる人が多い世界です。そのお寺のしきたりや、檀家さんとの付き合いなどからですな。ましてや、女房殿は一般家庭、在家の女性だったからですな。そう考えたら、現在の皇后陛下や、皇太子妃は大変だった、というよりも、今も大変でしょうな。松や柳などの木も、枝葉の先になればなるほど、風当たりが強いですもんね。訳もわからんで、適当に批判するのは止めにせんといかんですばい。どの世界も、トップは孤独でっせ。

さて、私がこの人を女房殿にと選んだ理由は色々ありますが、決めてはお金の始末です。何せ1円、10円を大事にする姿がよかったですね。昔から、「女房は竈(かまど)の灰の下からもらえ」という言葉がおまっしゃろ。つまり、苦労して育った女性は、よか女房殿になるということですばい。お寺に入って来るお金は、国で言われるところの血税と一緒ですからな。宗教法人に税金が掛からないのは、家庭内の仕組みと一緒だからですよ。お父さんと成人した子供たちが、働いてきた給料から数万円づつ家に入れて、生活費や光熱費などにあてているでしょ。その出しあったお金は家の収入とみなさず、税金は掛からないでしょ。お寺もこの仕組みと同じです。檀家さんたちからのお布施でもって、お寺は維持がなされているんです。ところがですたい。たまに勘違いをされている住職さんもおられるんですよな。「わしが働いたお金じゃ、全てわしのもんじゃなかとか」とね。・・違うおまっせ。あくまでも私たち住職は、お寺から給料を貰って生活をさせていただいとるんですばい。だからこそ、血税と一緒の尊いお布施、大事に始末をしてくれる女性を女房殿に選ばんとですな。


  思えば女房殿と知り合う以前、よく同僚の副住職らと、「嫁はんもらうんなら、どげなんがよかや」という話をしておりました。その時、異口同音に出てきた言葉が、「寺庭(じてい)さんと呼ぶにふさわしい女性がいいな」でしたな。お寺の奥さんのことを、所によっては、「坊守(ぼうもり)さん」とか「寺庭さん」とか呼ぶ場合があります。お寺の庭は、それを眺めるだけで心が落ち着きまっしゃろ。そういう雰囲気をかもし出している女性ということですわな。あとひとつはですたい。家庭の中ぐらいゆるりとしたいのに、そこに木魚を乱れ打ちしてお経さんを張り上げてる女房殿がいてんない。「仕事だけで十分じゃ、もう勘弁してや」、と言いたくなりまっせ。仕事と家庭を引き離したいのは、どの分野の仕事でも一緒じゃないですかな。家庭はやっぱり、安らげる場所でないと、・・・ですな。