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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成26年7月

父と息子の関係は、最期は同志が・・理想かな

 
7月といえば、やはり思い出されるのは、わが父上のことですかな。しかし何ですたいね。考えたら人間ってのは、ほんっと生かされて許されてこの世に存在しておるんですな。
一生を終わった人をあまたに送ってきた経験から思えることは、「人は病気じゃ死なない、必ず寿命」ということですかな。この世の役目が終わった人が旅立って逝かれたように思えます。老若男女を問わずにね。だからこそ、ご苦労さんという意味合いから、「寿」と書いて「寿命」と表すんでしょうな。父が目を閉じた時、一番仲の良かったお坊さまが、「おめでとうございます」と言ってくれはりました。この言葉は息子としては嬉しかったですね。

何よりの父に対する労いの言葉だったですばい。歴史上の人物からも「人は、寿命」が読み取れまっしゃろ。わかり易いところからだと、信長はんや、龍馬はんなどが、それかな。

思えば、昭和6年1月14日に生まれ、平成15年7月8日15時32分、72歳を一期まで、その寿命を父親本人はまったく予測できないままで歩んだ一生ですもんな。人の評価にしたってそうですばい。亡くなってからでっしゃろ、本当の評価が出るのは、ですな。

知らないといえばくさ。親子関係にしたってそうだよね。気付いたらこの父が親でしたもんな。戸籍を調べようなんて思いもしない。それこそ子供にとっては、疑う余地なしです。まあ、私らのように本当の親子であるに越したことはないですがね。しかし、血がつながっていようがいまいが、今現在、目の前で育ててくれてはる人が、間違いなく親でっしゃろうな。その恩は果てしなく深い。わが命がある間は、姿を消した(他界)からといって、その恩まで消えることはないですよね。人によっては今日現在、古(いにしえ)のわが先祖が受けたご恩までも返しておられる子孫が、地方によってはあまたにおらっしゃいますばい。

長野県の松本市では、甲斐の武田信玄公と敵対していた今川氏が、理不尽にも塩を止めたことに上杉謙信公が腹をたて、牛を連ねて塩を送ったことは有名な話ですよね(敵に塩を送る)。その日が1月11日だったことより、松本市では現在でもこの日に、謙信公へのご恩に報いる祭を開催しておられるということですもんな。なんと、400年もの間でっせ。

また京都では、明智光秀公が京都所司代を務めておられた時期が一番、町の平穏が保たれていたことから、そのご恩に報いるため、その御霊を回向する地蔵盆が庶民の間で始められたと聞いております。現代までも途切れずにですね(8月盂蘭盆後)。そう考えてみるとくさ。日本人というのはほんと、恩義に熱い民族なんだね。これは誇れることですばいね。

 さて、親子関係に話を戻しましょうかね。先日、「父と息子の関係は、どう流れるのが一番理想的だと思いますか」、という質問を受けました。父と息子の関係は、非常に微妙で難しいですな。息子から見たら、当然小さい頃は怖い存在ですよね。二十歳前後からはライバルとなり、特にこの時期は、父親から否定されることを極端に嫌いますな。本人自身は一人前の男じゃないということは百も承知、その承知を突いてこられたら、素直には、ね。

以前、北野たけしさんがアナウンサーの方に、「人生終わりを迎えた時、何を一番認めてもらいたいですか」と、問われている番組を見ました。その時、私だったら何だろうか、と考えてみましたが、何を認めてもらいたいか、というよりも、誰に認めてもらいたいか、でっしゃろな。やはり何より、父親に認めてもらいたいかな。しかし、息子の晩年まで生きていることはないからね。そう考えると、私なら、やっぱり女房殿かな。一番身近な存在の女房殿に認めてもらえたら、それだけで十分です。一部始終を見てきてくれた人だもんね。

そういえば以前ですね。息子がまだ小学生だった頃、究極の選択だよ、とか言って「母さんと僕たち子供3人、誰か一人選べと言われたら、父さんは誰を選ぶ」と聞かれたことがありました。私はその時即答で、「母さんを選ぶよ」と。子供たちはそれぞれ独立して家庭を持ったら、まずそこを大事にしないとね。そうなったらくさ、最期まで残るのは女房殿だけだもんね。選択の余地はなし。度々言いますが、私は女房殿を大事にしないで、一家の安穏は保たれることはないと確信しております。所謂、儒教経書四書の一つ、大学の「修身、斉家、治国、平天下」の習いですな。足元も固めきらんもんに、その先はないですわね。

さて、その息子が現在24歳になっておりますが、先日呆れかえった口調で、「そんなに母さんべったりで、もし母さんが先に逝ったらどうすんの」と聞くもんで、また即答してやりましたばい。「心配はいらん。母さんの体に、まだ温もりが残っている内に、後を追う。あとは頼むぞ」と。「・・・」。これにはさすがに、女房殿も引いておりましたな。

私は常々檀家さん方に、「追善供養の「百か日」は別名「卒哭忌(そっこくき)」と言いましてな。本来の意味は、そろそろ身内も泣くのを止めなっせ、ということから設けられた迴向日なんですばい。いつまでも落胆してたら、逝った人が気にして安眠出来まっせんばい」と説いているのに、ところが我が身はこれですたい。まあ、しかし、坊主とはいえ、血の通った人間ですからな。寂しい時には寂しいし、泣きたいときには、当然泣くくさ。あのお釈迦さんだって、お弟子さんが旅立った時(他界)、涙されたと経典に残っとりまんがな。

まあ、それはそれとして、父と息子の関係ですが、最期は分かり合える同志になっていることが一番でしょうな。私も父も坊主のくせにお酒が飲めないのでわかりませんが、誰しもが言ってはるでしょ。晩年、親子で酒を飲みながら、いろんなことを語りあいたいな、とね。酒が飲める,飲めんは別として、腹を割って話せる関係になっていることが、最高かな。

平成14年10月18日、他界の9か月前のことですが、父は大手術を受けました。ガンは、大腸から転移して、小腸、肝臓、肺、膀胱、腹膜まで広がっていました。手術をしたからといって、命が助かるというわけではありません。そう、うんこです。腸閉塞を起こしたら苦しみますんでね。一応の応急処置ですばい。それでもオペ室に入って行く時は、「病巣は全て摘出できたよ」、というドクターの術後の言葉を、諦めの中にも微かに期待をしておったので、「入室後1時間で呼んでくれるな」と、さすがに祈っていましたね。ところが1時間ぴったりです。その時の心境は、「くそー」の一言でしたな。オペ室に入ると、病巣摘出前の内臓を無造作にほうり出された父が横たわっておりました。「残念ですが、・・手遅れです」と。・・わかってまんがな。聞きたくなかった言葉ですが、予想通りの言葉でしたね。

数年後、その時の心境はどうだったかを、息子に聞かれました。「そうだね。爺ちゃんのあの姿を見て、まず思ったことは、申し訳ないという思いだったかな。こんな体にした原因の一部は間違いなく、心労をかけた父さんの責任が含まれとるだろうからな」と。

あれから11年、今年今月で12回忌です。私の中では、まだまだ色あせてはないですね。昨日のことのようですばい。結局、この歳になってもまだ、親の存在を欲している証拠ですかな。「甘えんな」と言わず、「感謝の心が深いね」と、思っていただければ幸にて。