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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成27年3月

人の心を動かすことの出来る、生き方とは

 
 弥生3月といえば、私にとってはですな、いろいろと思い出多き月でございましてね。平成24年に縁あって初版法話本、「重いけど生きられる」を世に出させていただいたのも、まさにこの月でございました。思えばこの本1冊で、ころっと人生の転機(仕事の幅)がやってまいりましたね。そのきっかけとなったは、本山の高僧による一言でございました。

「おい、山本くん。今まで法話で話してきたものをさ、箇条書きでいいから、わしに書いてよこしてくれんか」と。宗内のお方なら、この口調の主がどなたかは容易にわかるかと。

 さあて、やれやれ、困ったと。何せこれまで、口から出任せに法話をしてきたものだから、何一つも文章化にして書き残してなかったものでね。それからというもの、記憶を何十年もさかのぼって、何とか200程の話に仕上げ、その高僧に提出させていただきました。それを仕上げていくうちに、ふと、「この法話、何か世の中のお役に立たないもんかな」と。頭をよぎったと同時に、即行動ですばい。大型書店に足を運び、仏教書物が置かれている棚で10社程の出版社の住所を書き取り、この箇条書きにまとめた法話を、「これ、使えそうですか」と、図々しくも送りつけたんですよね。何日かすると数社から、「検討します」とのご連絡が入ってくる中、最終的に私を拾い上げてくれることとなる、イースト・プレスの社長さんが、1日に何度もご連絡をくれましてね。私が仕事でお寺におらず捕まらなかったもんだから。「この法話、どこかと契約の話がまとまりましたか」と。「いいえ、検討するとの話だけはきておりますが」「当社が責任をもって世に出しますから、他社との話は断って下さい」と。勿論のことすぐに飛びつきましたよ。後にこの社長さんから聞いた話ですが、持ち込み原稿を出版社全額負担で世に出すというケースは、ほとんど皆無だということ。イースト・プレス社でも、初めてのことだということでございました。この契約が整った後に、検討するとご連絡をいただいていた数社から、次々に断りの電話が入ってきました。まあ、当然ですわな。多額のお金を掛けてまで、売れるかどうかもわからんど素人の本を、赤字覚悟で出してくれるとこなんて、ね。世の中の習いに、出る杭は打たれる、という言葉がありまっしゃろ。なら反対に、出過ぎた杭はどうされるんじゃろ。そりゃ、抜かれるだけでっせ。しかし、抜かれた杭も、中には拾うてくれるお方もおらっしゃいます。まだそれ自体、使い道がありそうならですばい。私にとってはこの社長さん、まさに、拾う神さん、でしたね。 

 しかしながら正直に言うと本心は、そりゃもう、尋常じゃなかったんです。契約していただいたことは、本当に有難かったんですよ。だけどですな、出版本に関してはど素人でっしゃろ。箸にも棒にもかからずに売れなかったら、数百万円以上の赤字を出版社に負わせることになるんですよ、部外者のこの私が。数か月してクリアー出来たよ、との知らせが入ってきた時は、ほんっとに、心からホッとしましたばい。「迷惑をかけずにすんだ」とね。今度の続編法話本も同様、「迷惑を掛けずにすむかな」と、やはり心痛の思いでございます。

 さて、本が世に出てからは、出版社指導で様々なご縁をいただきましたが、元来は人前に出たり、リーダー的立場の仕事は大の苦手(嫌い)でして、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌など、矢継ぎ早にやってくる注文に対し、「出来れば、そっとしておいてもらえれば、・・・」と消極的な態度を取っておったところ、一時代を駆け抜けた職歴を持つ、早大卒40歳前の恐っとろしい男性担当者(本当は優しいですよ)が、「おい、こら、我がまま言ってんじゃねぇ」と、穏やかな笑みを浮かべながらの睨み、・・仕方なく、ですな。でも、仕方なく、という言い方はいけませんな。赤字になるかも、というリスクを背負ってまで出版していただいておるわけですから。「嫌だ」、なんて言える立場じゃないですわね。しかし、こうしたご縁のおかげで、時においては排他的となる信仰の世界ではありがちな、「井の中の蛙」から引きづり出していただき、加えてつき合いの幅も、ですな。まさに、「犬も歩かにゃ、棒にも当らん」ですかな。その貰えたご縁がきっかけとなったのかどうかはわかりませんが、出版年の12月、「命を考える会」の生命尊重センターよりご連絡があり、佐賀県の方で講演をしていただきたいとのご依頼、これが講演会デビューの始まりとなりました。このご縁がまたくさ、不思議な絡みがこの時ありましてね。講演を終えて帰宅途中に、静岡県の40歳男性という方から携帯電話に連絡が入りまして、・・どうやって調べたんだろう、と疑問には思いましたが、あえて聞きもしませんでしたが。その内容はこうでございました。

 今日会社に行って仕事を済ませたら、自社ビルから飛び降りて自殺しようと考えられていた、ということなんですな。ところが、パソコンを扱っているうちにどこをどう触ったのか、私のホームページの法話が出てきた、というんです。その法話に何気なく目を通しておると、他の月の法話も全て読んでみようという気になり、時間を忘れて読み進めていくうちに、いつからか、「俺は、死んじゃいかん」という心になり、「自殺を思い止まった」と。そこで、どうしてもお礼が言いたくて電話をしてこられた、ということなんだそうです。場所が近かったら足を運んで直接お礼が言いたいのですが、と言われたのですが、今は電話もあるし、メールも、ファックスもある時代だから、わざわざ来られることはありませんよ、と。それよりも、一度そういう気持ちに追い込まれたら、自殺願望は、またやってくるかもしれません。その時は毎月ホームページに新たな法話を載せておりますんで、それを見られて、何かしらのヒントにして下さい、と。それでも納得いかなかったら、その時は電話を下さい、と。この3年間で数人ではありますが、法話を読まれた方から、「自殺を思い止まりました」、とのご連絡が入ってまいりました。このことが何よりも嬉しい収穫でありましたね。「命」の講演の後に、こんな話(ご縁)が舞い込んでくるとは、ですな。八宗(真言、天台、南都六宗)の祖といわれる龍樹菩薩さんは、ご縁についてこのようにおっしゃりましたもんね。「この世の中は、縁で繋がっていないものは何一つもない。偶然と言う言葉は、人間が創った言葉である」と。ちなみにですな、八宗の中の南都六宗ですがね。今現存しておるのは、六宗のうち三宗のみでして。東大寺などで有名な華厳宗、興福寺などの法相宗、鑑真さんで知られる唐招提寺の律宗ですかな。消えてなくなった理由は、まあ、色々と事情があったんでしょうが、世の中の理として需要がなくなったら、自然と消滅していくもの。大衆が必要であると望めば、それ自体は必ず継続していきます。人に望まれるものであれば、ですよ。

 藤堂高虎という戦国時代から江戸時代初期に活躍をされた武将は、晩年目が不自由になった時、二代将軍秀忠公は高虎公が歩きやすくする為に、江戸城廊下をまっすぐに大改造されたとのこと。他の武将から、「あなたの為に、何故そこまで」の問いに高虎公は、「さあな。ただ、わしは誰よりも早く登城し、誰よりも遅く下城してきただけじゃ」と。高虎公のような人の心を動かすことのできる生き方、さてさて、私達はしておりますでしょうかいな。