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中山身語正宗 天徳山 金剛寺です

過去の法話

平成27年7月

昼行燈、大石内蔵助公は何故に腰を上げられたか

 
  特に最近、一元さんですがね、25才前後の若者が親に連れられてお寺に相談にみえられることが多くなってまいりましてね。その相談内容というは、ほぼ就職問題にて、会社に入ったはいいが長続きをしないとのこと。先日ニュースを見ておりましたら、おっとどっこい、ちょっと驚いたのですが、会社の入社式にどうも親がついて行っているらしく、会社側の方も何と親の席まで準備をしているとのこと。いやはや、会社側も大変だわ、そこまで気を使ってやらんとあきまへんか。悪い意味での「親離れ、子離れ」が、ここまで深刻な問題になっているとは知りまへんでしたな。そりゃ、何かあったらくさ、親に泣きついて会社を辞めるくさ。こういった風潮も結婚出来ない若者を増やした要因の一つなんかな。家族の間に第三者(婿、嫁)が入り込む隙間がないわね。

 

先日ですが、知り合いの銀行の方が情けない顔をされてこんな話を。
23才、一流大学出の男性が入社してきたはいいが、窓口に座らせるとお客さんとの対応が出来ず、上司が別室に呼び出し注意をすると泣きながら、「僕、銀行辞めて、学校の先生になります」と、会社を辞めてしまわれたそうで。「この子は勉強だけは出来るんですが、」の典型のような子でしたな、と。まあ、こんな極端な子はごく一部だとは思いますがね、だって、こんな子ばかりだったら、この国の将来は危うかですばい。

銀行と言えば先日、「ダウンタウンなう」なる番組で、元大手銀行員の方々が内部事情をおもいっきし暴露されておられましたな。何と、支店によって給料もボーナスも違うんだそうですな。さらにおったまげたのは、新入社員のオリエンテーション(運動会)などには東大卒の人達は参加をさせず、会社役員さん達がビルの上から下を眺めさせて一言、「よく見ておけ、あの者たちは君らの手足となって働く人間だ」と。なんじゃ、そりゃ。話半分として聞いても、あかんわ。だけんど、田中角栄さんも、現首相も、東大卒ではないんだけどな。確かに勉強が出来るというのは、何かの判断基準になることは否めませんし、頭(脳)を鍛える手段としては、絶対に欠かせないものであることも間違いはありませんよ。しかし五科目が得意であっても、それだけでは人の体を診察することなどは出来んし、人の心を引きつけ、それを束ねる度量が備わるとは限りませんもんな。人はロボットじゃないんだから、心のない命令、強制だけでは動きませんよ。全ては世に出てからの経験の積み重ねから得ることの出来る力だと思うんですがね、信頼も、度量も、技量も、ですな。なのにですたい、テレビ番組で「学力だけが将来を決める」、なんてな情報を流すもんだから、そりゃ、あんたはん、若者は当然理想から入ってくるようになりますわな。世の中がそうなってしまっておるから、結果人材が育っておりませんもんな。人材が育ってないといえば、もう一つだけ言わせておくれやす。どうしても合点がいかんことがあってですな。この国は大学入試で医学部希望者を学力で振り分けておりまっしゃろ。当然と言えば当然、他に方法があるんかい、ってなことですがね。しかし外科医については、宮大工、指物大工(タンス職人)並みの技量を必要とする分野の職種でっしゃろ。手先が器用かどうかなんて、生まれつきの部分が大いにあるじゃろうに、それを見極める手段も打たず、たった1点や2点の学力の僅差で合否を決めてくさ、さてさてこれまで、どれだけの逸材の芽を摘んできたんじゃろうね。医学部を志願して受けにきておる人たちですばい、それなりの志を抱いてのことでっしゃろ。その点をもう少し考慮する必要があるように思えるんですがな。「いやいやお坊さん、その合否も、あんたさんが常々言わっしゃる得意の「縁」だがね」と一蹴されればそれまでですが。しかし、しかしですばい、どうも今この国の風潮は、やる気のある人材をそれぞれがわが身の保身から、潰してしまっているように思えて仕方がないんですがな。先般の関西地区の選挙もまさにそれだったかな。しかし、あの市長さんは、直情的に動いているように見えますが、はてさて、そうかいな。二重、三重にどっちに転んでも国や国民に対し、問題定義が残るように仕組んでおられたような、そんな気がしてならないんですがな。懸案事項(争点)によっては、1票のあり方を考慮せにゃならん場面も当然出てくるんじゃないんですか、とか。「将来のことより、今が大事」を重視し、やる気のあるものを、やる気のないものが潰したら、後々何が残るのか、とか。真剣に考えなきゃならん時は、真剣に参加せにゃならん。「誰かがするじゃろう」と、他人任せで良き世は創れんよ、とか。あっさりと身を引く姿勢を示されたのも、全て想定内にて、何か深い意味があるように思えてならないんですがね。

この度の市長さんの動きを見ておりますと、どうしてもあの1702年(元禄15年)12月14日の忠臣蔵、赤穂浪士の大石内蔵助さんと重なって見えてくるんですよな。浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)公の仇討(この度の選挙)を通じて、時の将軍徳川綱吉公のご政道(現在の国政)に物申したようにですな。いやあ、弘法大師さんの重ね言葉をお借りしますが、実に「勿体ない、勿体ない、重ねて勿体ない」ですばい。400年の歴史がある日本三大盆踊りで有名な阿波踊りに、「えらいやっちゃ、ヨイヨイヨイヨイ、踊る阿呆に見る阿呆、同じ阿呆なら踊らな、損々」という言葉がありまっしゃろ。まさに、あれですな。いつの世でも、講釈言い、文句言いは動かんと相場が決まっております。ガタガタ言わんとまず動け(踊れ)、ですな。動かんと言えば先日、見知らぬ葬儀屋さんから電話で、こんな愚痴話が入ってきました。そこでは約9割が家族葬なんだそうで、中でも酷いのは、お経も唱えてあげずに火葬し、遺骨はそこに捨てて、そのまま墓終いにする家もあるとか。その不孝を止めるためにラジオで番組を開き、その地方の住職さんらに30分の法話をお願いしているのですが、大半が断ってくるとのこと。その理由は、ボランティアでギャラがないからだと。おまけに、人の畑に何勝手に土足で踏み入ってきよるか、と文句まで言ってくるそうで、・・・ね。ちなみに家族葬とは、「あなた方とは付き合うするつもりはございませんので」と世間に向かって公表しておるのと同じにて、・・「いざ」という時の支えを失いまっせ。 

そう考えたらあの市長さん、四面楚歌の状況下、わが信念とやる気で切り開いていこうとするあの姿勢は、現代の若者たちにとっては、非常によか手本だったのにね。勉強でも仕事でも、「これがお前さん方の理想郷だ」と上から押し付けられたものを「正解」として歩まされとりますからな。こんな世を、「くそ面白くもない」と感じられている若者も少なからずおられるんじゃなかろうか。何せ、出来あがったハンバーグが冷凍食品で売られてますもんな。わざわざミンチを買ってきて、下味つけて練り上げるという面倒くさいこと、何故にせにゃあかんねん、ってな世の中です。何もないところから創り上げていくという喜びを、これからの若者には示していかんとならんのですがな。国造りも人材造りも、同じことですばい。親(上に立つ者)が楽をした分だけ、子供は育ってはおりませんもんな。ひと手間を掛けることを嫌がっていては、将来の充実(安穏)なんて、望めないんじゃないのかな。